日本の城ある記(東海の城・鳴海城)

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 鳴海城  (なるみじょう)


訪問記
 鳴海城は当初は三河に対峙する尾張の前線基地として、そして桶狭間の戦の時は尾張に対峙する今川側の前線基地としての役割を担っていた。今川勢と織田勢の間で激しい戦闘が行われた地であるが、城跡からはそれを想像させるものはない。いや、城跡そのものが消えてしまっている。かつての鳴海城は道路で分断され、ほとんどが住宅地と化している。わずかに残る空き地が神社と児童公園として整備され、そこに城跡であることの標識があるだけだ。標識がなければ戦国時代にここに城があったことなど誰も気づかないだろう。鳴海は東海道53次の宿場町が置かれた所でもある。旧東海道を少し歩いてみたが隣の有松と比べて当時を偲ばせる建物も少ない。わずかにクランク状の街道筋が江戸時代を想い起させる程度。子供の頃に隣町である鳴海にはしばしば出かけたが、その当時は道路も狭く、古い町屋も結構残っていたように思う。町中を少し離れた旧東海道筋には松並木も残っていたがそれも消え去っている。町が発展することは、そこに住む者にとって必要なことであり、昔の遺物を残すにしても程度問題である。とはいえ、昔を懐かしんで訪れる訪問者には少し淋しい。(2012年8月28日) 
 
 鳴海城は応永元年(1394)安原備中守が標高20mの丘の上に築城したのが最初とされる。永正年間(1504〜1521)には笠寺付近を支配していた土豪の山口氏(周防に勢力を誇った山内家の一族だったともいわれる)が城主として支配し、織田信長の父信秀の時代はその配下にあった。信秀の死後、山口氏は今川側に寝返り、駿河より今川側の武将・岡部元信等を引き入れる。信長は鳴海城を奪還すべく兵を出したが、今川勢によって阻止される。
 永禄3年(1560)今川義元が尾張に侵攻した時、鳴海城は岡部元信が城主として守っていた。それ以前に山口氏は今川義元に駿河に呼び寄せられ、切腹させられている。桶狭間で主の義元が討たれると、岡部元信はすぐさま撤退することなく織田勢と争ったが、義元の首を引き取ることを条件にして城を明け渡す。以後、鳴海城は廃城となった。
 

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