日本の城ある記(東海の城・大草城)

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 大草城  (おおくさじょう)


訪問記
 大草城と聞いても、ほとんどの人はその存在を知ってはいないだろう。私も、この城を訪ねる直前まで知らなかった。何気なく地図を眺めていて、あるはずもないと考えていた場所にお城を示す地図記号を見つけた。もっとも、日本全国には2千を超す城や砦の跡があるらしいから、どこに城跡があっても不思議ではない。
 戦国末期、伊勢湾に片腕を伸ばすように突き出た知多半島の大部分はこの地の豪族佐治氏が領有し、佐治氏はまた伊勢湾海上交通を掌握する佐治水軍の頭領でもあった。その本拠地は大草城から南へ2kmほどの丘陵地にある大野城である。桶狭間で織田信長が今川義元を討った後、佐治氏は信長に臣従する。信長は妹の”お犬の方”を佐治家の嫡男、信方に娶らせるなどの厚遇でもって迎えている。”信方”の名も、もともとは佐治為興と称していたものを信長の一字を拝領して改名したもの。しかし天正2年(1574)佐治信方は信長による伊勢長島城攻めに従軍し、そこで討ち死にしてしまう。22歳であったという。信方の後継ぎが幼少であったため、信長は弟の一人である織田長益(のちに有楽斎と称す)に知多郡を与える。長益は大野城に入城するが水利が悪いため大草に新たに築城を開始する。
 大草城は本丸、二の丸、三の丸を配して本丸と二の丸に堀を巡らせ土塁で囲った梯郭式の縄張りの城で、現在もこの遺構がほぼ残っている。しかし天正10年(1582)に本能寺で信長が亡くなり、覇権を握った秀吉によって織田長益は摂津国に転封され、大草城は完成することなく放置された。江戸時代になり、知多郡は尾張徳川家が領有し、家老の山澄氏に5千石を与えて大草城の近くに居住させ、大草城の遺構を保全させた。保全の目的は、いざ合戦となった時、尾張徳川家を守る拠点として大草城の活用を考えてのことであったのだろうか。いずれにせよ、戦国時代に廃城となって放置された城の遺構が現在まで良好な形で残っているのはこのお蔭なのだろう。現在本丸跡と推定される地に天守風の櫓が建てられているが、かつてここに櫓が建てられた形跡はなく、観光用に作られた展望台である。(2016年7月31日)

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