日本の城ある記(東海の城・犬山城)

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 犬山城  (いぬやまじょう)

訪問記
 岐阜城は長良川河岸の金崋山山頂に建つ。犬山城は木曽川河岸の丘の上に建つ。岐阜城は美濃にあって山城に、犬山城は尾張にあって平山城に分類されている。共通点はいずれも日本を代表する大河に面して建てられていることだけだが、小学生の頃の私はこの両城をよく混同していた。両城とも何度か遠足や遊びで行ったことがあり、その際、たいていは河原で持参の昼食を取るのが普通だった。小学生の私にとって城跡見物よりそちらの方が重要であったので、岐阜城も犬山城も区別する必要はなかった。(もっとも、今考えてみると岐阜城に行ったときに長良川の河原で弁当を食べるには少し距離がある。長良川に遊びに行って岐阜城を見なが弁当を食べた記憶と混同していたのかもしれない)どちらにせよ、両城は子供のころから何度か訪れた城である。何度も訪ねた城だが最後に犬山城を訪れてから20年以上の間隔があると思う。であるから、サイトに飾る写真がないので改めて訪問することにした。
 最近のお城ブームのせいなのか、私の記憶の中にある犬山城はひなびた地方都市にひっそりと建つ古城のイメージであったが、随分と周りの環境が整備され、全国銘柄の観光地に変身している。駐車場も立派なものが造られている。その分無料であったものが有料になっている。とはいえ、城そのものは変っていない。犬山城天守は日本に残る12の天守の一つで国宝に指定されている。望楼型の天守で、そこからの眺めは昔と変わらない。眼下に木曽川が滔々と流れ(訪問した日の前日に上流で大雨が降ったので怖いほどの濁流であった)、木曽川の対岸には隣国美濃の山々が眺められる。平和な時代に築かれた城と違って、犬山城は戦国時代に築かれた城である。城郭の規模は小さいが国取りを夢見た武将の息遣いが聞こえてきそうだ。(2011年8月30日)
 
 犬山城は中国揚子江の丘にある古城にちなんで江戸の儒学者・荻生徂徠が”白帝城”と名付けたという。ただし、城の下を流れる木曽川の遊覧船はドイツの大河にちなんで”ライン下り”と呼んでいる。
 最初に築城(砦)したのは文明元年(1469)尾張上4郡の守護代織田家の一族である織田広近とされる。天文6年(1537)に織田家家老・織田信康が奮取。信康が斉藤道三との戦で戦死し、天文13年(1544)に子の信清が城主となるが、信長と対立して永禄7年(1564)に信長に攻め取られる。
 豊臣秀吉の時代になって、その家臣石川貞清が城主となる。石川貞清は関ヶ原の戦で西軍に与して敗れ、慶長5年(1600)清州城の付家老小笠原吉次が城主となった。この時、近世城郭に改修されたといわれる。また、現存天守も
この時に創建されたとされる。
 慶長12年(1607)に尾張藩付家老・平岩親吉が城主となる。平岩氏が無嗣のため断絶し、元和2年(1616)尾張藩付家老として成瀬正成が城主となる。以後江戸時代を通じて成瀬家が城主を務めたが、正式に大名格に列せられたのは明治元年になってからで、犬山藩の成立もこの時。
 犬山城は木曽川左岸(尾張側)の約40mの山上に本丸、二の丸を配置し、山下に三の丸を置いた平山城。本丸には天守・御殿、4基の櫓が築かれていた。明治24年(1891)の濃尾地震で天守を除くすべての建物が崩壊。この時に、天守は修復を条件に成瀬家に無償で払い下げられた。以来、個人所有の城となっていたが現在は財団が所有。

犬山藩  歴代藩主
 家紋  入封時期  家禄  入封時藩主  
明治元年
(1868)
3万石 成瀬正肥(譜代)尾張藩付家老から大名格となる  

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