日本の城ある記(東海の城・名古屋城)

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 名古屋城  (なごやじょう)

訪問記
  私が生れたと同じ市内にあるお城とはいえ、歩いてゆける距離ではない。バスに乗っても30分はかかった。だから頻繁に名古屋城を見ていたわけではない。名古屋城についての私のもっとも古い記憶は小学校低学年の時、親父に連れられてまだ天守閣が再建される前の石垣だけの天守台を見たこと。場所ははっきりと覚えていないがアメリカ駐留軍のカマボコ兵舎を同時に見たような記憶がある。
 天守閣が完成したら見に行く約束だったが、完成した年、私が小学6年生の時は伊勢湾台風の襲来を受けた年で、私の家も少なからず被害に遭ったので完成直後に見に行った記憶はない。
 高校生の頃、名古屋城やその周辺はデートコースであった。私も人並みに思春期を経験したが、そんなほろ苦い思い出も忘れ去ってしまうほど故郷から遠ざかっている。
 たまたま、仕事も兼ねて名古屋を訪れた。昔の記憶を呼び戻そうと名古屋城を訪ねたが、ちょっと残念だったのは本丸御殿の再建工事中で少々雑然とした雰囲気であったこと。それでも天守閣を眺めるポイントは充分にあり、昔の記憶もいくらかは呼び戻すことができた。
 名古屋城は近代建築で再建されたお城である。これを木造で立て直そうという計画があるらしいが、その是非は別にして、今のコンクリートのお城であっても私には十分に存在感がある。他のどのお城と比べても圧倒的な存在であり、そもそも比較の仕様のない特別なお城である。故郷の思い出の何パーセントかは名古屋城の風景と共に蘇ってくる。
 再建中の本丸御殿は昔通りの木造建築とのこと。そう言えば、私の親父は戦前(私が生まれる前)名古屋城の近くに住んでいたそうで、天守閣や本丸御殿が空襲で焼失した際、自警団の隊員として一番乗りで駆け付けたと聞いたことがある。親父の見た御殿がどんなものであったのか、完成したら訪ねてみたいと思っている。(2010年6月11日)
 
 名古屋城の起源は16世紀前半に今川氏親が尾張進出の為に現在の2の丸付近に「柳の丸」を築いたのが最初とされる。天文1(1532)に織田信秀が今川からこれを奪い、那古野城と改名した。天文3(1534)織田信長は信秀の二男としてこの城で生まれたとされる(異説もある)。天文5(1536)信長が2歳の時に那古野城の城主となった。弘治1(1555)信長は本拠を清州に移したため、那古野城は廃城になる。当時の尾張の中心は清洲であったが、関ヶ原の後、家康はこの地の支配と大坂、京都、西国の備えとして名古屋に城を築くことを決して、慶長14(1609)西国の諸大名に助役を命じて天下普請として築城を開始した。
 慶長17(1612)に天守閣は完成し、所謂「清州越し」という、家臣、町人、110カ寺に及ぶ寺社の移転が行われた。

 名古屋城の縄張りは、郭が長方形で直線の城壁が多く、角が直角の単純な造りとなっている。姫路城のような複雑で曲線の多い城が好まれた時代で、当時の軍学者からも酷評されたという。大坂方面に対する東海道筋の最大拠点として位置づけられる名古屋城の縄張りを、敢えてこのようにしたのは、それなりの理由があってのことだろうがその方面の研究は進んでいないようだ。 
 明治維新後も名古屋城は取り壊されることなく保存されたが、昭和20(1945)の空襲によりほとんどが焼失した。現在残る建物は辰巳櫓、御深井丸隅櫓、未申櫓、本丸南二の門等の6棟で、これらは全て重要文化財として指定を受けている。また本丸御殿の襖絵等が空襲前に疎開されて焼失を免れ保存されている。  
 名古屋城で最も有名なのは金の鯱鉾。築城当時の金鯱は慶長大判で1940枚(215.3kg)が使用されていた。しかし、藩財政の悪化の為、都合3回にわたり金鯱の改鋳を行ったという。まさに「尾張名古屋は城で持つ」の言葉通りである。現在復元された金鯱には88kgの金が使用されている。ちなみに、焼けた金鯱の残骸は金の茶釜と名古屋市旗の冠頭に改鋳されている。

尾張藩  歴代藩主
 家紋  入封時期  家禄  入封時藩主  
 元和2年
(1616)
47万3千石  徳川義直(家康の九男)駿府より入城  

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