訪問記
お城のある清須市は「須」と表記するが、清洲城は「洲」と表記するようだ。古くから用いられているのがどちらかは分からないが、須も洲も水辺を意味する。清洲城は五条川を城域に取り込んだ平城である。鎌倉街道と伊勢街道が交差する交通の要所にあり、織田信長が居城とした城の一つでもある。
清洲城を訪れたのは夏の終わりの早朝。今年の残暑はいつになく厳しいようで、朝の早い時間であったがすでに気温は30度を超えているように感じた。名古屋から名鉄電車で20分ほどで清洲駅に着き、駅から15分ほど歩くと城址公園に着く。清洲城の跡地は東海道線、東海道新幹線によって分断され、北側が本丸跡、南側は公園になっていて信長の銅像が立っている。五条川の対岸には模擬天守も作られている。天下を目指した城跡らしく、現在も天下取りを目指すビジネスマンを乗せた高速列車が頻繁に城跡を通過してゆく。
清洲城は尾張支配の拠点として築かれたが、徳川の時代になって名古屋城が整備され、世にいう「清洲越え」によって街そのものが名古屋に移転した。
清洲城が最も脚光を浴びたのは信長が今川義元を迎え討つために桶狭間に出陣した時だと思う。史実かどうかはともかく永禄3年(1650)5月、「人生50年 下天のうちをくらぶれば 夢まぼろしの如くなり ひとたび生を得て 滅びせぬ者のあるべきか」と謡曲の敦盛の舞を納めて、疾風の如く出陣した場面は小説、映画で何度も読み、そして目にした。
今川側の圧倒的な軍勢と戦う時、精鋭部隊とはいえ少数の軍勢しか持たない信長には野戦が不利であることは当時の常識であった。家臣の反対を押し切り敢えて籠城戦をとらずに今川側と正面で対峙したのは、当時の清洲城は五条川を利用した堀で防御を固めているものの、平城であり籠城戦には適さないと信長は判断したからだといわれる。桶狭間での勝利は運も味方した結果ではあったが、信長が正面攻撃に出陣したのは必定であったと言える。
信長は桶狭間の戦の後、小牧山に城を築き清洲を去る。更に岐阜、安土と居城を移して天下布武に邁進する。天正10年(1582)本能寺で明智光秀に討たれて夢半ばにしてこの世を去る。49歳であったという。まさに人生50年、下天のうちをくらぶれば、である。(2012年8月28日) |