日本の城ある記(東海の城・小牧山城) 

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 小牧山城 (こまきやまじょう) 

ある
 小牧城を訪れたのは7月の下旬。名古屋で所用があり、自宅の最寄り駅を朝一番の電車に乗り、新幹線を乗り継いで名古屋駅に着いたのは朝の8時頃。早々に用件(お墓参り)を済ませて小牧に向かう。まだ午前中であるがとにかく熱い。今日の最高気温は35度をゆうに超える予報が出ている。2週間ほど前に岡山、広島、愛媛地方を中心とした豪雨によってこれらの地域では甚大な被害があったが、それ以降日本列島は猛暑に包まれている。
 名鉄小牧線の小牧駅で下車。ここから小牧城のある小牧山までは約1.5km。お城見物であるので本来なら雲一つない晴天は歓迎すべきだが、今日は「勘弁してくれと」恨めしく思う。下車駅から小牧山までは平たんな道なのだが、ゆっくり歩いても汗が出るほどだ。
 名古屋に住んでいた頃、この近くは仕事でも私用でもたびたび訪れていた場所。しかし一度も小牧山城に足を運んだことはなかった。信長が居城とし、秀吉と家康が戦いを交えた場所であることは知っていたが、観光用に建てられた城が存在するだけとの先入観からか、訪れたいとの興味がわかなかった。近年になって、いろいろ調べてみると、発掘調査も行われていて、築城当時の遺構がかなり残っているようだと知る。名古屋で用を済ませた後、すぐさま山陰地方のお城見物に出かける予定だったが一日を小牧山城とついでに岐阜城の見学に割くことにした。
 小牧山城は濃尾平野のほぼ中央部にある標高86mの独立峰である小牧山に築かれた城。独立峰であるので、頂上からは濃尾平野が360°展望することができる。ここに城を築いたのは織田信長。築城の目的は美濃攻略のため。信長は永禄6年(1563)にそれまでの居城である清洲城から小牧山城に移り、美濃攻略を成し遂げて岐阜城に移る永禄10年(1567)までの4年間、小牧山城を居城とする。信長が岐阜城に移った後、小牧山城は廃城となったようだ。わずか4年間しか使用されなかった城だが、発掘調査の結果、土塁を用いただけの簡略な城でなく、小牧山城は城の持つ権威を最大限に利用しようとした信長の、その集大成と思われる安土城につながる石の城の遺構が数々発見されている。
 当時の城は(特に山城は)防御の目的を第一としたもので、築城にあたっては敵の侵入を防ぐ為の仕掛けを備えることに注力した。本丸への登城路となる大手道は堀切や横矢掛けを築くなどして厳重な備えを施している。それに対し、小牧山城は後に築城される安土城と同じように(規模は違うが)直線的な大手道である。頂上真下は勾配が急であることもありつづら折りの登城路となっているが、おそらく当時の常識的な城構えではなっかったと思われる。もっとも、直線的な登城路を進み見上げれば石垣で防御された城郭が頭上に迫ってくるような視覚的圧迫感を登城者に与えたことは想像できる。両端を石で土留して直線的に整備された登城路は、その城に居城する者の余裕を感じさせ、支配者の権威をより一層高めたであろうことも十分想像できる。
 本丸のある主要郭部分は三段に分けて組まれた石垣で築かれていたようだが、麓から見上げれば一つなぎの巨大な石の城壁に見えたであろうと想像されている。信長は僅か4年間しか滞在しなかった小牧山城だが、石垣を用いた城を築いたのは最初から短期間の使用であることを想定していなかったと思われる。発掘調査や残された資料から城下町の整備も目論んでいたことがうかがわれる。信長がこの時点で「天下布武」を意識して行動していたかどうかわからないが、少なくとも城を中心とした国づくり、武士だけでなく町衆の力を存分に発揮できる世の中を意識していたことは間違いないだろう。小牧山城の築城は歴史的にはほんの一瞬の輝きであったに過ぎないが、安土城へとつながるだけでなく戦国時代の終焉、秀吉、家康の天下統一につながる起因の主要な一つであったのではないかと思う。(2018年7月22日)
 永禄10年(1567)美濃攻略を成し遂げた信長は小牧山城から岐阜城へ居城を移す。これに伴い廃城となった小牧山城だが、廃城から17年後に再び脚光を浴びる時が来る。
 天正10年(1582)本能寺で信長は明智光秀に討ち取られ、その光秀を秀吉が討ち取る。信長後の天下支配への主導権を得た秀吉だが、これを快く思はない武将も当然いる。その筆頭格である柴田勝家は信長の次男信雄、三男信孝を擁して秀吉と対立。天正11年(1583)に秀吉は賤ケ岳で柴田勝家と戦を交え、勝家を打ち破る。織田信雄は秀吉によって安土城を追われるが、信雄は家康を頼り、これに紀州の雑賀衆・根来衆、四国の長曾我部、北陸の佐々成政、関東の北条氏らが加わり秀吉包囲網を形成する。
 天正12年(1584)3月12日織田氏譜代の重臣であった池田恒興は織田軍に与すると思われていたが、秀吉側に寝返り犬山城を占拠する。この時清洲城にいた家康はすぐさま行動を起こして小牧山城に陣を張る。同時に虎口の守りを固め、土塁を整備するなど小牧山城を大改修する。小牧山城は濃尾平野を一望できる絶好の立地にある。敵の動きを瞬時に捉えることができ、動員する兵力に不足がなければこの時点で家康の勝利が約束されたとも思われる。
 秀吉は家康が小牧山城に着陣してから6日後に3万の兵を従えて大坂城を出陣。その6日後に岐阜を経て犬山の楽田城に着陣する。秀吉が着陣するまでの間、双方は砦の修復、土塁の構築など自陣の備えを強化。このため互いに相手の陣を攻略することが困難となり、小競り合いを繰り返すだけで戦況は膠着状態となる。
 戦況が動くのは半月ほど経ってから。秀吉側の池田恒興、森長可らの進言により秀吉は家康の本拠地三河に侵攻することを決断。池田、森の軍勢は三河への進路にあたる岩崎城に籠る徳川勢を攻めて陥落させる。しかし秀吉側の動きは当然に家康側にも知れることで、家康は小牧山城を出て池田、森の軍勢と対峙し池田恒興、森長可を討ち取り家康側の完勝に終わる。敗戦の報に秀吉は2万の兵力で戦場に赴くも家康は小牧山城へと帰陣し直接対決はなかった。しばらく膠着状態が続き、6月になり秀吉は大坂城に帰還。家康も清洲城に戻った。11月になり秀吉は織田信雄と講和を結び、信雄は戦線を離脱。戦争の大義名分を失った家康は浜松城に帰還する。その後秀吉と家康との間でも講和が成立し、小牧長久手の役と言われる一連の戦は決定的な勝敗がないまま終結する。

 小牧市歴史館パンフレットより転載

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