日本の城ある記(東海の城・郡上八幡城)

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 郡上八幡城  (ぐじょうはちまんじょう)

訪問記
 郡上八幡城を訪れたのは今回で2回目。ただし最初に訪れたのがいつであったのかよく覚えていない。多分、20年以上前に、白川郷からの帰り道、吉田川河岸の山上に建つ白亜の城郭を見つけて立ち寄ったと思う。事前に立ち寄ることを予定してのことではない。その時の印象では観光用に造られたコンクリート製の城のイメージであった。しかし、その記憶は全く正しくないことを今回の訪問で訂正する。観光用に造られた城であることは、一面では正しい。しかし、コンクリート製の城であるとの思いは全く違っていた。天守(模擬天守)が再建されたのは昭和8年のことだという。当時としては珍しく全て木造建築で再建されていた。ひよっとして最初に訪れた時は入場料を惜しんで、あるいは、どうせコンクリート製の城であろうとの先入観から、建物の中に入らなかったのかもしれない。今回は最初から城を訪ねることを目的にしていた。従って入場料を惜しむことなく天守に登る。
 再建された天守は大垣城をモデルとして建てられたという。もともとあった天守の形状は判明していないらしい。とはいえ模擬天守であっても天守最上階からの眺めは文句なく素晴らしい。美濃から飛騨へ、そしてその先の越中、越後へ抜ける交通の要害に建ち、城下に広がる郡上の町では夏の2か月、400年続く郡上踊りが行われている。それにしても明治になっていち早く城は取り壊されたというのに、昭和の早い時期に、しかも木造で城が再建されたのは、城下に住む人の城への愛着があってのことなのでしょう。聞けば司馬遼太郎氏が日本で最も美しい山城と絶賛したという。例の百名城にはリストアップされていないが、歴史も規模も他の城郭に決して引けを取らない名城である。(2011年8月30日)
  
 郡上八幡城を最初に築いたのは永禄2年(1559)この地一帯を支配していた東氏を破った遠藤盛数とされる。盛数の長男・慶隆が城主の時、秀吉と対立する織田信孝に与したため城を追われる。代わりに城主になったのは稲葉貞通で、貞通は天守、二の丸を整備して近世城郭に改修した。関ヶ原の戦の時、稲葉氏は西軍に加担したため改易となり、稲葉氏を攻めた遠藤慶隆がその功によって慶長5年(1600)再び城主となる。 遠藤氏は3代にわたって城を現在の姿に改修。
 郡上八幡城は標高350mの八幡山に築かれた山城。山上に本丸、山腹に二の丸が配置され、二の丸に藩主の居館が築かれた。模擬天守の建てられている本丸の石垣は往時のまま残ったもので、二の丸にも石垣の一部が残っている。
   

郡上藩  歴代藩主
 家紋  入封時期  家禄  入封時藩主  
慶長5年
(1600)
2万7千石 遠藤貞通(譜代)美濃小原より入封  
 元禄5年
(1692)
5万石 井上正任(譜代)常陸笠間より入封   
元禄10年
(1697)
3万8千石 金森頼 (外様)出羽山上より入封   
宝暦8年
(1758) 
 4万8千石 青山幸道(譜代)丹後宮津より入封   

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