日本の城ある記(東海の城・苗木城)

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 苗木城  (なえぎじょう)

訪問記 
 苗木城は美濃国にある。美濃と聞けば広大な美濃平野を連想するが、中津川市にある苗木城は木曽街道(狭義の)の南の入り口である馬籠宿に近く、峠を超えれば隣国信濃の妻籠宿に至る山深い地にある。またここは中山道から飛騨路へ分岐する地でもあり、古くから要害の地とされていた。城は木曽川に面した標高426mの高森山の頂上に本丸を置き、街道筋を見下ろす格好の場所にある。
 私が名古屋に住んでいた頃、もう30年以上も昔のことだが、島崎藤村の出生地である馬籠宿には何度か訪れたことがあり、また中央高速が開通する前は国道19号線を通って信濃方面へ何度も出かけた。その都度、苗木城のある中津川を訪れているが、いつも車を運転して通過するだけで街並みを見ることもなく、もちろん苗木城を訪ねることもなかった。いや、当時は苗木城の存在そのものを知らなかった。中津川での思い出といえば中津川市内を抜けるのに一時間ほど掛かった大渋滞のこと。当時は片側一車線の道でしかなく、渋滞は毎度の事で中津川市内に近づくと恐怖心を感じるほどだった。ともあれ今回は鉄道を利用した。前日名古屋に泊まり名古屋駅を出発する中津川行の始発電車に乗る。1時間20分ほどで終着駅に到着。駅前から出るバスに乗り、苗木で下車。ここから苗木の集落(城下町)を抜けて苗木城に向かう。登城口である「竹門」までは緩やかな勾配の上り路だが、ここからは苗木城が山城であることを実感させられる。
 高森山に最初に城を築いたのは鎌倉時代末期の元弘年間(1331〜1334)に岩村城を本拠として恵那郡一帯を支配していた遠山家の一族、遠山一雲入道、遠山景長親子とされる。
 戦国時代になり苗木城の支配者はめまぐるしく変わる。天生2年(1574)に甲斐の武田の侵攻に遭い、次いで天生3年(1575)に織田信長の嫡男、織田信忠が岩村城をはじめ東濃地方の諸城を陥落させる。この時の苗木城主遠山友忠は信長と結んで織田の配下となり苗木城を守った。天生10年(1582)に本能寺の変で信長が死亡後、豊臣秀吉と徳川家康の確執が顕著となり、天生11年(1583)に家康に与していた遠山友忠は秀吉の意を受けた森長可に攻められ、友忠とその子友政は家康を頼って浜松に敗走する。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの折、遠山友政は家康の命を受け西軍側が支配する苗木城を攻略、その後家康より苗木領を安堵される。同時に友政は苗木城を近代城郭への改修に着手。高森山の頂上に本丸を置き、西に二の丸、その北側に三の丸を配置。本丸には巨大な岩盤の上に三重の天守を建てる。二の丸には藩主の住居が建てられ、多聞櫓が連なり、城全体には5基の櫓を配置した。遠山家は明治まで12代、苗木藩の藩主、苗木城の城主として続く。
 苗木藩の所領は僅か1万石であり、この禄高で城持ち大名であるのは異例。苗木城は「赤壁城」とも呼ばれたが、これは一般的な城の壁は白の漆喰で塗られるのだが、苗木城は財政上の理由で赤土がむき出しの壁であったことが理由という。現在は当時の建物は何も残っていないが、巨石を利用した本丸の天守台、三の丸の大矢倉の石垣などが保存状態もよく残っている。天守台には懸け造りの展望台が作られ、眼下に木曽川、遠くに中津川の街並みが眺められる。大矢倉の石垣もここから眺めれば古代遺跡の趣もある。(2016年7月30日) 

苗木藩 歴代藩主
 家紋 入封時期   禄高  入封時の藩主  
慶長5年
(1600)
1万石 遠山友政(外様) 関ヶ原の戦の際、かつての居城であった苗木城を家康の命を受け攻略。家康より所領を安堵される。

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