日本の城ある記(東海の城・岩村城)

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 岩村城  (いわむらじょう)


 
訪問記
 岩村城は標高721mの城山に築かれた典型的な山城。近世城郭の中では最も高い場所に築かれた城とのこと。日本三大山城の一つに数えられている。因みに他の二つは大和高取城と備中松山城。
 JR恵那駅から明智鉄道に乗り換え岩村駅で下車。駅から少し歩くと古い街並みが現れえる。かつての城下町である。江戸時代の風情が街並みによく残っている。訪れたのは七月の終わり。土曜日であり夏休みの期間中であったが、観光客はまばら。今年の夏は異常に熱い。緑に覆われた自然豊かな地であっても都会と同じでムシムシした気候は変わりない。人影が少ないのも止むを得ない。ここに観光客が訪れるのは春か秋がピークなのだろう。
 町並みは岩村城への登城口に向かう一本道に1kmほど続いている。緩やかな上り坂の両側に隙間なく軒が連なっている。冬の季節、積雪量はそれほどでもないのか、雪国によく見られる雁木(がんぎ)はない。この通りは現在は本町通りと呼ばれているが、古くは上町、中町、下町に分かれ、上町には職人が、中町下町は商家が並んでいたという。
 町並みが途切れ、少々勾配がきつくなってきた道をしばらく進むと太鼓櫓が目に入る。ここは江戸時代には岩村藩の下屋敷があった場所で、平成2年(1990)に御殿門とともに復元された。
 太鼓櫓を過ぎると、道はさらに傾斜を増す。近代城郭では最高点に築城されたという岩村城への登城路が続く。本丸までは1.5kmほどの登りである。
 文治元年(1185)に源頼朝の御家人であった加藤景廉(かとうかげかど)が遠山荘と呼ばれたこの地に赴任し、城を築いたのが今村城の始めともいわれるが確証はなく、その位置も山頂ではなく平坦部であったともいわれている。また築いたのは加藤景廉ではなくその子の景朝ともいわれる。
 戦国時代この地は武田信玄と織田信長による争奪戦の場となる。遠山氏は織田信長に与していた(織田、武田両方に服従していたともされる。当時は織田と武田は同盟関係でもあった)。元亀2年(1571)城主であった遠山景任が嗣子なく亡くなり、景任は信長の叔母「おつやの方」を正室としていた縁で信長の5男を養子として迎い入れる。おやつの方は幼少の養子に代わり女城主として采配を振るうようになる。元亀3年(1572)武田信玄は遠江の徳川家康を討つため進軍し、その過程で家臣の秋山虎繁に岩村城の攻略を命じる。城はなかなか落ちなかったが元亀4年(1673)になって秋山虎繁はおやつの方を夫人とすることで和睦し、岩村城は武田側の城となる。武田信玄が亡くなりその子勝頼の代になって天正3年(1575)の長篠の戦で武田軍は壊滅的な敗北を負い、その期に乗じて信長は嫡男信忠を総大将として岩村城を攻め陥落させる。岩村城は森蘭丸の配下となる。天正10年(1582)信長が本能寺の変で亡くなると、岩村城は信長と同じく本能寺で亡くなった森蘭丸の兄、森長可が接収し、長可死後は弟の忠政が城主となる。森忠政が城主となって、その家臣各務元正が17年の歳月をかけて岩村城を現在みられる近代的城郭に整備する。豊臣秀吉の死後、森忠政は信濃松代へ転封され、その後に織田家の家臣から秀吉の家臣となった田丸直昌が岩村城に入る。関ヶ原の戦で田丸直昌は西軍に与し所領は没収されて、慶長6年(1601)に松平(大給)家乗が2万石で入封する。家乗は山上にあった城主居館を山麓に移し、同時に城下町を整備する。以後城主は変わるも、平和な時代が続く。(2016年7月30日)
   

岩村藩 歴代藩主
 家紋 入封時期   禄高  入封時の藩主  
葵の字 慶長6年
(1601)
2万石 松平(大給)家乗(譜代)上野那波より入封
寛永15年
(1638)
2万石 丹羽氏信(譜代)三河伊保より入封
元禄15年
(1702)
2万石 松平(大給)乗紀(譜代)信濃小諸より入封

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