日本の城ある記(東海の城・岐阜城)

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 岐阜城  (ぎふじょう)

ある
 特段に歴史好きではないにしても歴史ドラマはよく見る。歴史ドラマ=史実ではないにしても織田信長の生きざまには共感もしたし、スクリーンやテレビ画面に登場すれば血も騒いだ。そんなとき、必ずと言っていいほど登場するのは岐阜城。一時期、私は北向きのトイレの窓から岐阜城の姿を見ることができるアパートに住んでいたことがあった。大雨の時、岐阜城のある金華山に降り注いだ雨が何筋もの滝となって山肌を流れ落ちるのを見たのは壮観だった。その雨は長良川を決壊させるほどの雨量だったのでよく覚えている。
 そんなわけで、子供の時も訪れたし、社会人になってからも何度となく岐阜城を訪れている。ところが、残念ながら当時はデジカメも発明されておらず、それに基本的に写真嫌いであったのでフイルムカメラも持ち歩くことは少なかった。従って写真に残った岐阜城がない。私自身の人生の記憶帳としてネット上のホームページを立ち上げること思いついたが、掲載する写真がない。機会があればと思っていたが、たまたま仕事で岐阜を訪れた時は多忙で寄る時間がなかった。そんなわけで、例年なら東京か横浜で見る花火を岐阜で見ることにしてカミさんを説得して出かけた。勿論、長良川で見る花火は初めてではない。名古屋に住んでいた時は毎年ではないもののしばしば見に出かけたし、岐阜に住んだときは当然に見た。ただし横浜に移り住んでからは初めてのことになる。花火が始まるまでの昼間の時間に岐阜城を訪ねることにした。かつての写真嫌いも今ではカメラ小僧に変身してデジカメを手放さない。やたらと撮りまくる。
 岐阜城には歩いて登ることもできるが、時間もかかるし体力にも自信がない。ロープウェイで登るのが観光的にも体力的にも一番良い方法である。ロープウェイのゴンドラの窓から長良川や岐阜の街を見下ろすのも楽しみの一つである。また予想通りではあるが、ひなびた場末の観光地を思わせる施設を見るのも、これもまた面白い。都会人となった今の私を満足させる。     (2007年8月4日)
  
 岐阜城は言わずと知れた織田信長が「天下布武」の号令を発した城。稲葉山(金華山)の山頂に築かれた山城で難攻不落な名城と知られているが、歴史上は七度の落城にあっている。とはいえ、永禄4(1561)織田信長がこの城に立て篭もる斎藤龍興を攻めた時は敗退している。
 最初に稲葉山山頂に砦を築いたのは建仁1(1201)の鎌倉時代にこの地の豪族二階堂氏といわれている。京都に対して東の要所に位置し、城を巡る攻防は何度も行われた。二階堂氏が没した後、しばらく廃城となっていたのを15世紀中ごろの戦国時代に美濃の守護代斎藤利永が修復して居城とした。
 大永5(1525)斉藤氏の家臣であった長井新左衛門尉が謀反を起こし稲葉山城を占拠。天文2(1533)には、新左衛門尉の子(養子?)で後の斎藤道三こと長井新九郎が城主となる。このあたりは戦国時代の下剋上、国とり物語の見本として歴史ドラマに幾度となく描かれている。
 永禄10(1567)美濃攻略を成した信長が、本拠地を小牧山から稲葉山に移し、岐阜城と命名した。

 戦国時代は歴史の表舞台であった岐阜城は、徳川の時代になって廃城となった。家康は「天下布武」の舞台であった「岐阜」の地名を嫌っていたようである。
 慶長6(1601)家康は譜代の家臣奥平信昌に10万石を与えて稲葉山から離れた加納に築城させた。その際、岐阜城にあった天守、櫓などは加納城に移築されたといわれている。天下人となっても信長の怨念におびえていたようだ。
 現在の岐阜城の天守は昭和31年(1956)に模擬天守として建築されたもの。信長の時代に天守があったかどうか、あったとしてもその構造は不明。 
  


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再訪
 前回岐阜城を訪れたのは10年以上前。花火見物のつい
でに立ち寄ったもので、お城見物も単なる観光の一環でしか
なかった。もう一度訪れたいと考えていたがなかなか実現できなかっが、山陰地方のお城見物へ向かうの途中で名古屋に立ち寄り小牧城を訪ねた。時間的に余裕があったので、ついでに岐阜城も立ち寄ることにした。
 今回は山城であることを実感するため天守閣(復興天守)がそびえる金華山山頂の本丸まで徒歩で登ろうかとも考えていたが、麓から天守を見上げてその考えは即座に中止。何しろこの猛暑である。予報では36度以上の暑さになるという。一人旅の老人が熱中症で倒れれば恥ずかしい思いをするだけでなく多くの人の迷惑となる。前回と同じくロープウエイで山上を目指す。(2018年7月22日)
 ロープウエイで登ったにせよ、山上に着いて改めて岐阜城が堅固な山城であることを実感。しかしそれだけではない。長良川が眼下を流れ、濃尾平野が一望できる天守からの眺めは、戦国の世の武将ならば信長ならずとも天下布武を発したい思いにとらわれたに違いない。
 とはいえ、山上尾根の主郭部分は天下布武を号令する武将には似つかわしくないほど狭い。主郭を取り巻くように金華山全体に曲輪や砦が多数配備されていたにしても大部隊が立て籠るだけの容量はなかったのではと思う。政治の中心は麓の御殿であり、山上の城は詰の城の役割であったにしても少し貧弱な気がする。そもそも信長は城に立て籠もって身を守ることなど考えていなかったのではないかとさえ思う。
 清洲城から移った小牧山城がそうであったように、信長にとって城は身を守るものではなく見せるものであったと思う。その思いは安土城へとつながっている。
   

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