日本の城ある記(東海の城・加納城)

 東海の城 トップページへ 日本の城ある記 トップページへ 
 加納城  (かのうじょう)

訪問記 
 
岐阜といえば信長が稲葉山(金崋山)に築いた岐阜城があまりにも有名な存在。その城下町に楽市楽座の制札を掲げて自由な商業活動を保証した話も、これも有名な話。それに比べ同じ岐阜市にありながら加納城は控え目で目立たない城である。30代後半まで中部圏に生活の本拠を置いていた私も稲葉山には何度か行ったが、加納城を訪れたことは一度もなかった。しかし家康が関ヶ原の戦いに勝利した後、西側をけん制する役割で築いたのが加納城で、その存在は決して小さな物ではなかったはず。しかし残念ながら稲葉山には模擬天守が再建されているが、加納城は放置されているに等しい存在。夏の終わりに加納城を訪れたが、荒れ果てた城跡に少しさみしい思いもする。堀が埋め立てられたのは仕方が無いにしても、せめて残った土塁や石垣を整備して城址公園としての体裁を整えるくらいのことはしてほしいものだと願う。
(2013年8月26日)
 この地に初めて城を築いたのは文安2年(1445)美濃の守護土岐氏で、土岐氏の居城であった革手城の出城として築かれた。その後、土岐氏を放逐した斎藤道三は加納城を廃して稲葉山に城を築く。戦国乱世には中世の館に近い平城より堅固な守りの山城を必要としたのだろう。しかし、関ヶ原の戦で勝利した家康は稲葉山の城を廃して、再び加納の地に城を築く。築城工事は中部地方の諸大名に助役を命じた天下普請で行われた。山城から平城に戻したのは大坂方との戦闘に備えることもさることながら、地域の統治を主眼とした家康の自身のあらわれであったのかもしれない。また、信長が築き天下布武の拠点となった岐阜城、そして信長の亡霊を忌み嫌った家康の意向であったのかもしれない。 しかし、廃城となった岐阜城から天守などを移築したとも言われているので、家康が信長の亡霊におびえていたということではなかったのかもしれない。信長・秀吉の時代が終わったことを天下に示すためにあえて岐阜城の天守を移築させたとも考えられる。
 徳川の時代の加納城は中世の加納城の本丸を取り込み、二の丸と三の丸を梯郭式に配した縄張りとなっている。本丸には天守台が設けられたが天守が建てられることはなかった。二の丸北東隅の三階櫓が天守の代用とされていたようだ。この三階櫓が岐阜城の天守を移築されたものといわれていたが、享保13年(1728)に焼失している。

加納藩 歴代藩主
 家紋 入封時期   禄高  入封時の藩主  
慶長6年
(1601)
10万石 奥平信昌(譜代)上野小幡より入封  
慶長7年
(1602)
6万石 松平(菅沼)忠政(譜代)上野吉井より入封 忠政は実父奥平信昌から封を移譲される。
寛永9年
(1632)
5万石 大久保忠職(譜代)武蔵私市から入封  
寛永16年
(1639)
7万石 松平(戸田)光重(譜代)播磨明石より入封  
正徳1年
(1711)
6万5千石 安藤信友(譜代)備中松山より入封  
 宝暦6年
(1756)
3万2千石  永井直陳(譜代)武蔵岩槻より入封   

  ページトップへ 

 
Copyright(C) tenjikuroujin.jp All Rights Reserved.