日本の城ある記(東海の城・大垣城)

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 大垣城  (おおがきじょう)

訪問記
 大垣で有名なお菓子といえば(もっとも私のなかで有名であって、一般的には有名でないのかもしれない)この地方でとれる富有柿を使用した柿羊羹。このお菓子を目的に大垣に寄ったついでに大垣城を訪ねる。訪れたのは8月の初め。酷暑の1日。
 中部地方に長らく住んでいたが、大垣城には訪れたことは一度もなかった。とはいえ関ヶ原の戦の際に西軍の大将石田光成が入城して一時的に西軍の拠点となった歴史は知っている。だからそれなりの城構えを期待していたが少々がっかり。ちょうど天守閣が修復工事中で工事用の幕に覆われており見ることができない。城址一帯は公園として整備されてはいるが、古地図に見る当時の規模からは相当に縮小されて堀も埋められてしまっている。本丸の石垣には民家の軒が接するほどでもあり10万石の禄高を誇った大垣城としては少しさみしい。
 来年には天守閣の補修工事も終わる予定なので、工事用の幕がとれた天守を見ればもう少し良い印象を持てるかもしれない。機会があれば再度訪れる予定。(2010年8月3日)
  
 大垣城の築かれた地は関ヶ原の東方10kmにあり、中山道の交通の要衝にある。
 最初にこの地に城が築かれたのは明応9(1500)頃らしいが定かではないようだ。永禄3年(1560)氏家直元が城主になったとき、堀や土塁、総囲を大規模に修理・整備をした。以後、美濃斉藤氏の支城となり、ついで美濃を平定した織田信長が支配した。
 本能寺の変の後、天正11(1583)に豊臣秀吉の家臣、池田恒興が城主なり、天正16(1588)一柳直末、慶長1(1596)には伊藤祐盛が城主となる。この時に天守閣が築かれたという。秀吉は一族や重臣を城主として配置し、この城の役割を重要視していたようだ。
 慶長5(1600)の関ヶ原の戦いの際に、城主であった伊藤祐盛は西軍に加担した。石田光成が入城して、一時は西軍の本拠となった。このため、関ヶ原の戦の後も家康軍に包囲され落城した。
 
 
家康が天下人となった後も、大垣城の重要性は変わらなかったようだ。
 代々譜代の大名が城主となり、寛永18(1641)には譜代大名戸田氏鉄が10万石の領地を得て入封した。以後、幕末まで戸田氏が城主を務める。
 幕末の時、第11代目の藩主となった戸田氏共は早くから軍制改革に着手し、大垣藩兵は幕末最強軍団の一つに数えられるほどであったという。鳥羽伏見の戦では幕府軍として戦ったが、家老の小原鉄心が新政府軍の参与となり、藩主を説得して新政府側に帰順した。その後、宇都宮城、白河城、会津若松城の攻防戦に参戦して華々しい戦果をあげる。維新後、大垣藩は3万石の賞典禄を得た。これは薩摩藩10万石、土佐藩4万石に次ぐものであった。  
  

再訪 前回(2010年8月3日)訪問時は天守閣が修復工事中であったためその雄姿を眺めることができなかった。修復工事は2011年には完了していたので今回岐阜県を訪れた機会に再訪した。再建された天守閣はコンクリート製ではあるが、先の大戦で焼失するまでは現存天守として国宝に指定されていた。その外観を忠実に再現したもで見応えのある天守の姿です。(2016年7月29日訪問) 

大垣藩 歴代藩主
 家紋 入封時期   禄高  入封時の藩主  
 慶長6年
(1601)
5万石  石川康通(譜代)上総鳴渡より入封  
 元和元年
(1615)
5万石 松平(久松)忠良(譜代)下総関宿より入封  
 寛永元年
(1624)
5万石  岡部長盛(譜代)丹波福知山より入封  
 寛永10年

(1633)
6万石 松平(久松)山城淀より入封  
 寛永18年
(1641)
10万石  戸田氏鉄(譜代)摂津尼崎より入封  

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