日本の城ある記(関西の城・桑名城)

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 桑名城  (くわなじょう)

訪問記
 
日本一うるさい祭りが桑名にある。大太鼓と鉦を打ち鳴らすだけなのだが、40基ほどの山車が集まって、それが一斉に打ち出すのは壮観である。毎年8月の第1週の日曜日に本祭りがおこなわれ、その前の金曜日からの3日間、桑名の街は騒音に包まれる。事情があって私はほとんど毎年この祭りに付き合わされている。そんな訳で桑名の街はよく訪れる。従って、桑名城へは何回となく足を運んだ。
 
桑名城の跡地は九華公園として整備されてはいるが、残念ながら当時の面影を残す建造物は何も残っていない。しかも、天守台や堀に使われた石垣はすべて取り払われている。明治維新後、近くの四日市港を築造するため、その資材として桑名城の石垣が利用された。
 幕末の時、桑名藩の藩主であった松平定敬は京都所司代の要職にあり、兄の会津藩主であり京都守護職であった松平容保とともに、官軍と徹底的に戦った。そんな理由があってか、維新後に無残なまでに城が破壊されたのかと勘繰る。それでも、本丸を取り巻くお堀は埋められていない。石垣が取り除かれたため、水面との段差は僅か1、2メートルほどしかないが、ここにかつてお城があったことは想像できる。安藤広重が描いた東海道53次の桑名宿にも、海から眺めたお城がはっきりと描かれている。
 祭りの翌日、静かになった桑名町を歩いて城跡まで行ってみた。騒ぎの後の静けさの何とも言いようのない虚脱感が街全体を覆っている。江戸の時代から続く祭りである。100年以上も昔の町人も私と同じような気持ちでお堀の水を眺めていたのだろうか。(2009年8月3日)
  
 永正10(1513)にこの地の土豪であった伊藤武左衛門が、現桑名城のあたりに館を築いたのが、桑名城の起源とされる。天正2(1574)織田信長が桑名を征服すると、臣下の滝川一益が桑名を支配した。豊臣秀吉の時代には支配者が目まぐるしく変わったが、関ヶ原の戦の後、慶長6年(1601)徳川家康は徳川四天王の一人、本多忠勝を10万石で入封した。
 本多忠勝は直ちに城の拡張工事に着手。本丸、二の丸、三の丸、新城、芳之丸(下級藩士の屋敷地)、外朝日丸、内堀、外堀を完成させた。揖斐川を天然の外堀として取り込み、四重六階の天守閣を築いた。この天守は元禄14年(1701)に焼失し、以後天守閣は再建されることはなかった。
  桑名藩主は江戸時代を通して全て譜代の有力大名が入封された。禄高は10万〜11万石であったが、水害の多い地域でもあり藩財政は決して豊かではなかったようで、百姓一揆も度々起こっている。
 幕末の時、最期の藩主となった松平定敬(さだあき)はいわゆる高須四兄弟の末弟。京都所司代の職にあり、兄の京都守護職で会津藩主の松平容保(たかもり)とともに徳川幕府と運命を共にすることになる。
 定敬は会津藩主容保と共に徹底抗戦派であったが国元の家老は先代藩主の遺児・万之助(定教)をかついで恭順を決め、このため定敬は鳥羽伏見の敗戦後も国に帰ることができず、桑名藩の飛び地であった越後柏崎へ赴くことになる。横浜からプロイセン王国のコスタリア号で柏崎にわたり、新政府軍との戦いで敗走しながら会津城で容保と再会。さらに仙台に逃れて、ここから榎本武陽の艦隊で函館へ渡る。函館戦争終結の直前、明治2年(1869)4月アメリカ船で横浜経由上海へ渡る。しかし同年の5月に横浜に戻り新政府軍に降伏した。自身が望んだ行動であったのかどうか分らないが、幕末・維新の歴史の流れに翻弄された人生であったことは間違いない。
 

石取祭

桑名藩 歴代藩主 
 家紋  入封時期  禄高  入封時藩主  
慶長6
(1601)
 10万石
本多忠勝(譜代)上総大多喜より入封
慶長5年(1600)氏家行広、関ヶ原の戦で西軍に与して改易
 元和3
(1617)
 11万石 松平(久松)定勝(譜代)山城伏見より入封  
 寛永12
(1635)
11万石 松平(久松)定綱(譜代)美濃大垣より入封
元禄14(1701)城下からの類焼で天守他が焼失した。そ以後天守は再建されず。 
 宝永7
(1710)
10万石 松平(奥平)忠雅(譜代)備後福山より入封  
 文政6
(1823)
11万石  松平(久松)定永(譜代)陸奥白河より入封  

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