訪問記
伊賀上野城を訪ねた帰り、亀山城に立ち寄る。名古屋へ戻る途中だがJR伊賀上野駅から名古屋へ向かう直通列車はない。亀山で乗り換えが必要なので城見物にはちょうどよい。しかも次の列車の時刻までは1時間強ある。ローカル線の時間待ちも目的があれば苦にならない。亀山城は駅から歩いて10分ほどの距離だ。暇つぶしのちょっと散歩の気分で駅舎を出る。
最初は田舎町をのんびり歩く気分だったが、今年の夏は異常に熱い。亀山城は駅から坂道を上りつめた丘の上にある。汗かきの私は少し歩いてすぐに汗を拭くため鞄からタオルを取り出す羽目になる。歌川広重の描く東海道53次の亀山宿は雪景色の急こう配の坂道を旅人が列を作って登っている。頭上には亀山城の櫓がそびえている構図。現実の坂道は絵ほどの急こう配ではないが今は雪ではなく全く逆の灼熱の太陽が降り注ぐ真夏。雪道よりこのほうが私にはつらい。
坂道を登りきったあたりに亀山城の多門櫓が見える。私が持っている2006年発行の全国のお城の案内本の写真は櫓の壁は板壁になっているが、目の前の櫓は漆喰の白壁。それに屋根の形も少し違っている。石垣の形状は同じなので写真を取り違えたのではないようだ。とすれば、案内本の写真が撮られてから現在の形に改修されたことになる。江戸時代の建物が継承されているということだが、どちらが正しい姿なのだろうか。(後で調べて判明。2012年に江戸時代末期の形状に戻す修復がされたとのこと)
亀山城の遺構はこの石垣と多門櫓以外に目ぼしい物はないようだ。それでも6万石の大名の城である。何かそれらしき雰囲気はないかと隣接する公園を歩いてみる。台地状の公園を抜けた崖下に、かつての濠跡と見える池がある。また土塁の跡らしい形状の場所もあった。少し歩いた道路の脇には何の遺構もなかったが櫓の跡との看板もある。駅に戻る途中で城下町の雰囲気のする町並みに出会う。亀山城は城下に東海道が通る宿場町でもあるので、クランク状の道がその名残であるに違いないと勝手に解釈する。
亀山城という名称の城は丹波にもある。伊勢と丹波の亀山城。この2つの城をめぐって不可解な事件が起きた。寛永9年(1632)出雲松江24万石の藩主堀尾忠晴は幕府から丹波亀山城の修築の命を受けたが、これを伊勢の亀山城と勘違いして天守を解体するという事件が起きた。間違いにことよせた幕府の陰謀説との話も伝わるが不可解な事件だ。
第一、幕府の陰謀説というが幕府が亀山城の天守を取り壊す理由があったのかどうか。亀山城は京へ向かう徳川将軍の休息場所でもあった。そして”勘違い”と簡単に処理されているようだが天守を解体するという行為が単なる間違いで実行されることなのだろうか。また丹波亀山城は慶長14年(1609)に藤堂高虎を中心とした天下普請で大改修し、慶長15年(1610)には5層の天守も完成している。この時の城主は譜代大名の菅沼氏で、既に大阪の役も終わり天下の大勢も決しているこの時期に幕府が堀尾氏に修築を命じる必要があったのかどうか。修築が必要であったのなら、間違いに気付いた堀尾氏は丹波亀山城の修築の実行を改めて命じられるはずであろうがその記録がない。堀尾忠晴は翌年の寛永10年(1633)に嗣子が無く死亡し、宗家は断絶している。天守解体事件の時の伊勢亀山城の城主は三宅康信で、歴代の亀山藩主が5,6万石で処遇されているのに1万2千石での入封であり、また天守解体事件の起きた年に 死亡している。きっと何か深い事情があったに違いない。などなど、唯一残された多門櫓を見ながら夢想にふける。(2013年8月27日) |