日本の城ある記(関西の城・津城)

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 津城  (つじょう)

訪問記
 津は古来より安濃津(あのつ)と呼ばれ伊勢国の中心地であった。現在も三重県の県庁所在地である。仕事では何度も訪れているのだが、如何したわけか津城には足を踏み入れていない。名古屋に勤務していた時は近場でもあり何れそのうちにと、そう考えていたのが災いしてか遂にこれまで訪れる機会を逸していた。それに、たいした遺構も残っていないと、そんな先入観もあり積極的に行こうという思いにならなかった。しかし今回訪れて、さすが藤堂高虎が築いた城だと、今迄の思い込みを訂正せざるを得なかった。高虎の築いた城は外堀が埋め立てられ、東の丸は消滅、内堀も一部が残るだけとはなっているが、往時の壮大な規模の城郭を想い起すだけの雰囲気は残している。
  
 鎌倉時代、この地は藤原南家の流れをくむ工藤氏を祖とする長野氏が支配し、津城(安濃城)は永禄年間(1558〜1569)に長野氏の一族・細野藤敦が安濃川、岩田川の三角州に小規模の城郭を構えたことに起源するという。
 永禄11年(1568)織田信長の北伊勢侵攻に伴い、織田掃部頭が入城し、翌年に信長の弟、織田信包が入城。信包は天正5年(1577)城郭を拡大し、堀を石垣で普請し、本丸、二の丸、三の丸を築き、近代的な城郭に整備する。本丸には五重の天守も建てられたという。
 文禄3年(1594)信包は秀吉によって丹波に移され、代わって秀吉の家臣、富田一白が入城する。一泊の子、信高は関ヶ原の戦いでは東軍に与し、毛利・長宗我部の軍勢から攻撃を受け、城の大半が焼失。結局、城は開場したが奮戦の功が認められて家康から加増されて津城に留まる。
 慶長13年(1608)富田信高は伊予宇和島へ転封となり、代わりに伊予今治から藤堂高虎が入城する。

 高虎は慶長16年(1611)から城の大修築に着手する。北の安濃川、南の岩田川を天然の濠とし、その内側に二重の堀をめぐらし、内堀の中に西の丸、本丸、東の丸を連郭式に配置した。本丸には大小の天守台を築いたが天守は建てられなかった。本丸には三基の櫓があげられ、それらを結ぶ多門櫓で囲んでいた。以後、藤堂家12代の居城として幕末まで続く。(2014年8月22日)
   

津藩 歴代藩主
 家紋  入封時期  禄高  入封時藩主  
慶長5年
(1600)
5万石 冨田信高(外様) 関ヶ原の功により加増される
慶長13年
(1608)
22万石 藤堂高虎(外様)伊予今治より入封 慶長16年(1611)城の大改修に着手。
寛文2年(1662)西の丸を残して城が全焼。寛文10年(1670)城を再建。

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