日本の城ある記(関西の城・松阪城)

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 松阪城  (まつさかじょう)

訪問記
 伊勢神宮に行ってみたいと思いついたのが出発の1週間ほど前。もっとも伊勢神宮に行きたい理由は定かでない。ただ”もう何年も行っていなかったので”という程度の話だ。思えば横浜に移り住んでから20数余年経った。名古屋に住んでいた時も頻繁に訪れていたわけではないので30年近くは行っていない。それに、これまでの伊勢詣では正月かその前後のこと。夏の時期に訪れたことは無かった。”夏の伊勢路も面白いかも”と、高速道路乗り放題1000円を利用して横浜から車を飛ばした。しかしさすがに当日中に伊勢神宮を参拝する日程を組むのは年を取り過ぎた。途中で一泊して、翌日の早朝に伊勢神宮へ行った。
 松阪城へは伊勢神宮の帰り道に寄る。私にとって、松阪城は2度目の訪問になる。一度目は仕事の途中で寄ったので30分も滞在していない。立派な石垣が残っていたという程度の記憶しかない。2度目の今回は少し時間をかけて見ることにした。そのために松阪で宿をとることにした。松阪で宿をとったが、余分なことだが、予算の関係で松坂牛を食べることはできなかった。
 まだ管理人がいない時間に松阪城に隣接する市営の駐車場に着く。管理人はいないが駐車場はオープンされていたので勝手に車を止める。早朝ではあるが今年の夏は異常なほどの猛暑だ。表門から入り、本丸までの坂を上って、しっかりと汗をかく。汗をかいても、それだけの価値のある城跡である。当時の建物は何も残っていない。ただ石垣だけが残されているだけだが、立派な城郭があったことが想像できる。それに当時のままを忠実に守るためか、石垣の上部に安全のための防護柵もない。少々高所恐怖症気味の私は石垣の際にっ寄って下を見るのが怖い。それでも、なんでもかんでも安全策第一主義でその場の雰囲気を壊してしまう保存策よりこの方が良い。この先も妙な保護策を考えないでほしい。松阪城のいわれや歴史はともかくとして、城の中を歩き回る。ただ歩いて、当時の侍の気分に浸った。  (2010年8月3日)
  
 天正12年(1584)近江日野城6万石の蒲生氏郷が伊勢12万3千石を与えられ、松ヶ島城に入城したが、天正16年(1588)に新たな居城として松阪城を築いた。愛宕川を外堀として、本丸、二の丸、三の丸、きたい丸、三重の天守を築いた壮大な規模の平山城であった。また、旧領の近江商人を呼び寄せ、楽市楽座を設け、商都松阪の礎を築いた。天正18年(1590)蒲生氏郷は小田原の役の軍功により会津60万石の領主として会津若松城に移り、代わって服部氏が入封したが、文禄4年(1595)に秀吉に叱責され自害。次いで、吉田重勝3万4千石の禄高で入封した。
 
元和5年(1619)吉田氏が石見へ入封となった後、この地は紀伊徳川家の藩領となる。  松阪城の魅力は石垣にある。安土城の築城に加わった蒲生氏郷は、松阪城にもその時の石垣造りを取り入れた。「穴太衆」と呼ばれる近江の石工集団が、今までになかった工法を発案して安土城を築き、そして松阪城の石垣を築いた。「野面積み」を主体として、隅の部分は「切り込みはぎ」「算木つみ」という工法を用いている。また、経済の発達した商都松阪は有名な学者を輩出した。「古事記伝」を執筆した本居宣長は誰でも知っている。宣長は商家に生まれたが、自分は商売人には向いてないとして医学の道に入り、昼間は診療を業として、夜は古典の研究に没頭したという。享保15年(1730)に生まれ享和元年(1801)に亡くなっている。亡くなる時の門人の数は480人強であったという。

松阪藩 歴代藩主
 家紋  入封時期  禄高 入封時藩主   
慶長5
(1600)
 3万5千石 古田重勝(外様)関ヶ原の功により1万石加増  
   元和5
(1619)
  古田重治、石見浜田へ転封。以後は紀伊和歌山藩(紀州藩)の支城となる。  

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