訪問記
何年か前に鳥羽城を訪れたことがある。いや、正確には訪ねるつもりだったが場所が分らず通り過ぎたことがある。二見浦から賢島へのドライブの途中、近鉄賢島線の中之郷駅の近くに城跡があるとの、それだけの情報で訪ねたのだが、私の車にカーナビはなく、手持ちの地図にも城跡は表示されていない。看板くらいはあるさ、と甘く考えていたが、結局見つからず、城跡見物が主目的でないので通り過ごしてしまった。今回はネットで情報を収集し準備万端で出掛けた。
中之郷駅から用意した地図に従って歩き始めたが、三の丸の入口に通じるトンネルが工事中で通行不可。駅まで戻り、廃校になった小学校跡地を目指して丘を登る。鳥羽城跡は平成21年(2009)まで小学校の用地として使用され、本丸跡はその運動場として利用されていた由。その所為で残された石垣も防災のためにかなり手が加えられている。それでも本丸跡から眺める鳥羽湾は壮快な気分にしてくれる。
鳥羽城は鳥羽湾に突出した桶の山の先端部分にある。鎌倉時代にこの地の豪族・橘宗忠が居館を築いたのが始まりという。文禄3年(1594)戦国時代末期の有力な水軍の頭領であった九鬼嘉隆が城を築き、尾根を堀切し、掘削して水を通して水掘りを築き、城を陸地から切り離すという工事をする。九鬼嘉隆は信長の家臣として北伊勢侵攻、長島城の攻防に参戦し、また石山本願寺攻めでは細川の水軍と木津川沖で戦い、鉄で覆われた軍船を建造してこれを打ち破ったことでも有名。信長亡きあとは秀吉に仕え、朝鮮出兵にも水軍として参戦している。関ヶ原の戦では、自らは西軍に与し、子の守隆は家康の東軍に与した。関ヶ原で西軍が壊滅すると嘉隆は自害する。慶長5年(1600)子の守隆は戦功により3万5千石を得て鳥羽城主となる。寛永9年(1632)に守隆が死去すると跡目を巡ってお家騒動が起こり、五男の久隆が家督を継いだが海のない摂津三田に転封される。
寛永10年(1633)譜代大名の内藤忠重が入封し、本丸の他、二の丸、三の丸を築いて城郭を整備。城の周囲を石垣で固め、回廊状の道を辿って本丸にたどり着くという特異な形状の城にした。安政元年(1854)の安政の大地震で城は壊滅的な被害を受け、その後再建されることはなかった。(2014年8月22日) |