日本の城ある記(関西の城・新宮城) 

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 新宮城 (しんぐうじょう) 


ある
 生憎の雨模様。時々は本降りだが、幸いに風はない。傘さえ差せば城見物ができないこともない。それにしても蒸し暑さには閉口する。おそらく湿度は100%なのだろう。太陽に照りつけられることはないが、少し歩いただけで身体じゅうが汗ばむ。
 JR紀勢本線新宮駅から熊野三山の一つ熊野速水大社方面に向かって歩き出す。新宮城はそのほぼ中間地点にある。普通に歩けば10分ほどの距離だが、だらだら歩いたせいか20分ほど掛かったようだ。新宮城跡の看板のある冠木門に着いたときは傘がいらない程度の霧雨になっていた。
 新宮城には「丹鶴(たんかく)城」の別名がある。平安時代末、田鶴原と呼ばれていたこの地には熊野三山を支配した熊野別当の別邸があった。源頼朝の祖父である源為義と熊野別当の娘との間に生まれた「丹鶴姫」の住まいがあったことに因んで丹鶴山の名がつけられ、丹鶴山に築かれた城を丹鶴城と呼んだようだ。
 天正年間(1573〜1593)この地を支配した堀内氏善(ほりうち うじよし)が築いた「新宮城」は現在の新宮市千穂の全龍寺を中心とした地域にあった平山城(堀内屋敷とも呼ばれる)。
 因みに堀内氏善は熊野水軍を擁する軍事力を有し、天正4年(1576)には織田信長に仕える。信長没後は秀吉の配下となる。慶長5年の関ヶ原の戦では西軍側に与して敗れ、居城の新宮城も東軍側の和歌山城主であった桑山一晴に攻め落とされている。
 徳川政権になり、慶長7年(1602)紀州藩主となった浅野幸長の家老、浅野忠吉が丹鶴山に築城を開始する。しかし元和元年(1615)に一国一城令によって廃城となる。
 元和4年(1618)に新宮城の再築が認められ、浅野忠吉が再建に着手するが、元和5年(1619)に浅野家は転封となり、新たに紀州藩主となった徳川頼宣の付け家老・水野重仲(みずのしげなか 遠江浜松2万5千石の城主から転封)が築城を受け継ぐ。水野重仲は3万五千石に加増されたが、形式的には大名格から紀州藩の陪臣格になる。水野氏は明治元年(1868)になって正式に大名となる。
 水野氏が築いた新宮城は寛永10年(1633)に一応の完成を見るが、重仲の三代目・重上(しげたか)の代、寛文7年(1667)に現在見られる城郭が完成する。本丸には三重5階の天守が建てられた。
 新宮城の入口では傘が不用な程度の霧雨であったが、本丸に登ると少し強い雨になった。土の城なら足元が心配だが、石垣で囲われた城は雨にぬれると違った趣がある。古城に相応しい落ち着いた雰囲気である。今日は新宮市内に宿をとっている。時間はたっぷりある。雨宿りを兼ねて本丸下に造られたあずまやで時間をつぶす。(2019年7月22日)
 


 新宮藩(紀州藩支城) 歴代藩主
 家紋  入封時期  禄高 入封時藩主   
慶長6年
(1601)
2万8千石 浅野忠吉(紀州藩家老) 紀州藩37万6千石の家老・浅野忠吉が和歌山城の支城として新宮城の築城を開始 
永楽銭 元和5年
(1619)
3万5千石 水野重仲(譜代)遠江浜松より入封 御三家・徳川頼宣(紀州藩主)の付家老として新宮城主(形式的には大名格ではない)となる。明治元年(1868)に正式大名となる。 

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