日本の城ある記(関西の城・伊賀上野城)

 関西の城 トップページへ 日本の城ある記 トップページへ 
 伊賀上野城  (いがうえのじょう)

訪問記
 名古屋から奈良方面へ車で行くのには名阪国道を利用すると便利である。運転にちょっと疲れた頃、丘の上に伊賀上野城の天守閣が見える。名阪を利用して関西方面に向かったことは何度もある。従って上野城の白亜の天守を目にしたことも何度もある。しかしいずれも20年以上昔のことだ。  この城に立ち寄ったのは記憶にある限り一度しかない。しかも天守閣に登った記憶がない。城内にあった忍者屋敷に立ち寄った記憶はあるから、おそらく天守閣にも登ったのだろう。伊賀の里は忍者の里。そのイメージのほうが強くて城は添え物の感じだった。
 久し振りに伊賀上野を訪ねた。今回は車ではなくJRの関西本線を利用した。ローカル線ののんびりとした旅も時にはいいものだ。
 名古屋から亀山行の電車に乗り終着駅で降りる。ここから奈良県の加茂行き電車に乗り換える。列車の本数は少なく、連結している車両も2両とすくないが乗客は結構いた。ほぼ満席状態だ。私のような老人ばかりでなく若い人も半数近くいた。都会ばかりでなく地方でも若者の車離れは浸透しているのだろうか。JR伊賀上野駅で下車して、ここが始発の伊賀鉄道に乗り換える。伊賀鉄道は近鉄大阪線の伊賀神戸駅までつながっているので近鉄を利用して名古屋あるいは大阪へ向かうことも可能だ。
  伊賀鉄道に乗って上野市駅で降りる。現在は町村合併によって伊賀市となったが、かつてこの地域は上野市だった。鉄道の駅は市名変更後も昔のまま変わっていない。何か理由があってのことなのか、単に看板を書きかえる予算がないだけなのか、部外者の私にはわからない。
 伊賀上野城は上野市駅すぐ横の地下道を通り駅前広場の反対側に出て、歩いて10分もかからない距離にある。伊賀上野を訪れたのは、ついでに立ち寄ったのでもなく忍者屋敷を訪ねるためでもない。純粋に伊賀上野城を見学するためである。とはいえ、いつものことだが事前に下調べをしてから訪ねたのではない。しかも時間の余裕ができたので急に思いついての事だ。伊賀上野城が藤堂高虎によって築かれたという程度の事は知っていたが、天守閣がいつ誰によって再建されたかは現地で案内を聞くまで知らなかった。聞けば昭和の初期になって土地の篤志家の寄付で造られたという。しかも、もともと江戸時代には天守は建っていなかったそうだ。建築途中で暴風で倒壊し、その後建てられることはなかったという。現在立っている天守は全く観光目的で建築されたものだが立派な木造建築である。観光用の設計であるのか江戸時代の天守と比べ天井が高く装飾もなされている。内部構造は少し違和感も覚えるが、外観はかつてここに同じような構造の天守がそびえていたと思わせるものだ。石垣だけの城跡も、それはそれで趣あるが、やはり天守があると見栄えはする。町のシンボルとして住民にも受け入れられているようだ。(2013年8月27日)
 伊賀上野城は上野盆地のほぼ中央にある標高約180mの丘の上に築かれた平山城。北は服部川、柘植川。南は久米川。西は木津川に囲まれた要害の地にある。
 平安時代この地には平清盛の発願により創建された平楽寺という大寺院があったという。室町時代には伊賀の守護・仁木氏の守護所があった。
 天正7年(1579)織田信雄が八千の兵力で伊賀平定に向かったが伊賀衆の抵抗で敗退。天正9年(1581)織田信長の援軍を受けた4万の兵力が伊賀に侵攻し攻略する。
 本能寺の変後、豊臣政権下の天正13年(1585)大和郡山城から転封してきた筒井定次が平楽寺跡に築城を開始。丘の頂上部に本丸を置き、西に二の丸、北の山下に三の丸を配した城を完成させる。
 関ヶ原の戦で筒井定次は家康側につき、領土を安堵されて伊賀上野藩を立藩。しかし慶長13年(1608)筒井定次は不行状を理由として領地を没収される。一説によると定次はキリシタン信者で改宗を拒んだためという。
 代わって伊予今治から藤堂高虎が伊勢、伊賀22万石を領して入国。伊勢の津および伊賀上野を拠点とする。慶長16年(1611)より家康の意向を受け、大阪城および西国への備えとして伊賀上野城の大改修に着手した。本丸西側に幅15間の深堀を造り、高さ15間の高石垣を築く。南に二の丸を築き、本丸の西側に東西13間、南北11間、高さ5間の天守台を造る。天守台には五層の天守の建築を始めたが、途中で暴風雨によって倒壊。籠城戦にも備えた実戦本位の城構えの城を高虎は造り上げる意向であったが、慶長19年(1614)および元和元年(1615)の大阪の役で家康の勝利が確定したこともあり、強固な城の必要性がなくなったため天守閣は結局建築されなかった。天守閣は造られなかったが、2層櫓2棟、単層櫓8棟が建てられ、長さ21間で両袖に7間の多門櫓を付けた東大手門、西大手門も建築された。

  慶長20年(1615)に一国一城令が定められたが、伊賀上野城は伊賀国の城として存続が認められ藤堂高虎は津城を本拠とし、伊賀上野を支城として弟の藤堂高清を城代とした。藤堂高虎は大坂の役の勲功により10万石を加増され計32万石の大大名となる。
 明治維新後、城内の建築物の多くは取り払われたが、昭和10年(1935)に地元有力者の私財により模擬天守が建設された。大阪城の石垣をも凌ぐといわれた藤堂高虎が築いた本丸の高石垣は当時のまま残っている。 

  ページトップへ 

 
Copyright(C) tenjikuroujin.jp All Rights Reserved.