日本の城ある記(関西の城・長浜城)

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 長浜城  (ながはまじょう)

訪問記
 近江八幡から彦根に向う。今日の宿は彦根市内と決めている。最初は立ち寄る予定ではなかったが、このまま宿に入るには少し早い時間だ。乗った列車も長浜方面へ向かっていたので彦根を通り越して長浜駅で降りた。
 長浜には秀吉が初めて築いた城である長浜城がある。この時秀吉は木下姓から羽柴姓に改姓している。秀吉絶好調の時代だ。このあたりの事情はTVドラマに度々登場するので自然と身に付けた。もっとも、長浜城に関して私が知っていることもこの程度のもので、それ以上の知識はない。
 私が訪れた日、長浜城は満開の桜に包まれていた。夕闇が迫るには少し間はあるが、陽射しは既に長い影を作っている。長浜城の数少ない遺構の一つである”太閤井戸”は琵琶湖の湖水の中に沈み、石碑だけが頭を出している。400年前に湖岸に打ちよせた波と、この瞬間に打ち寄せる波と、何が違うのだろうか。(2014年4月5日)
 長浜城の位置する湖北地域は琵琶湖の水運があり、中仙道、北国街道・脇往還が交わる要害の地。湖から少し離れた小谷山には信長の妹”お市”が嫁いだ浅井長政が居城とする小谷城があった。天正元年(1573)信長は小谷城に籠る浅井長政とその父久政を攻め、激戦の末に小谷城は落城した。その時秀吉は浅井側の武将と内通し凋落させる工作を行い、また戦闘でも功を挙げた。この功績により信長は浅井家が支配していた北近江を秀吉に与える。秀吉は小谷城を廃城として琵琶湖に面した地に新たに城を築く。 この地は当初”今浜”と呼ばれていたが、秀吉は信長の一字を取って”長浜”に改名した。稲葉山を天下布武の拠点としてその地を”岐阜”に改名した信長にあやかってのものと推測される。これ以後、多くの戦国武将がこの真似をして本拠とする土地の名を変えている。
 長浜城の縄張りは南北800m、東西600mと推定されている。本丸、二の丸は琵琶湖と広い内堀に囲まれ、内堀には軍港が築かれ、練兵場、兵糧米の備蓄蔵などの軍事施設がもうけられていた。現在の湖岸よりも琵琶湖に張り出した”湖上の城”であったようだ。本丸には南北10間、東西12間の天守台が設けられて小谷城から移した三層の天守があったといわれている。秀吉は4年ほどでこの城を完成させている。また、城下町の形成にも努め、岐阜の城下町と同様に税を免除して商人を呼び寄せている。江戸時代を通じて長浜商人が栄えた基盤を作った。
 
本能寺の変後、清洲会議(天正10年・1582)で長浜城は秀吉から柴田勝家に譲られ、甥の勝豊が入城する。賤ヶ岳の合戦で柴田勝家が討ちとられると、山内一豊ついで内藤信成が城主となるが、元和元年(1615)に廃城となった。僅か40年ほどの歴史であるが、激変する時代の中で重要な役割を果たした城である。長浜城の石垣や建物は、彦根城の築城資材として活用されている。

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