日本の城ある記(関西の城・彦根城)

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 彦根城  (ひこねじょう)



訪問記
 彦根に宿を取り、彦根城の夜桜見物に出かける。私のポケットカメラではうまく夜景が取れないが、満開に咲く桜の花が創る素晴らしい光景はしっかりと自身の瞼に写した。
 翌日早朝に彦根城を再訪する。雨の降り出しそうな空模様に、朝食も早々に予定を早め少し急いでの訪問である。開門前に到着したが既に大勢の観光客が列を作っていた。さすが天守閣が国宝に指定されている彦根城である。彦根城を訪れたのは今回で3度目。ただし前回訪れてから20年以上経っている。その時はドライブのついでに立ち寄っただけで、駆け足の見学だった。今回はしっかり見てやろうと準備をしていたが、あいにくの空模様。雨が降り出さないことを祈りながらの訪問となった。
 彦根は徳川家康が天下の覇権をほぼ手中にしてから築城された城。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦で武功があった井伊直政は石田三成の居城であった佐和山城に入城したが、その子直継が家康の命を受け慶長8年(1603)現在地の彦根山に築城を開始したもの。大阪城落城前は大坂方の押さえのため。落城後は西国の押さえのための城として重要な役割を持っていた。江戸時代を通じて井伊家が城主であった。
 少年時代、歴史にそれほどの興味もなかったが、幕末の大老井伊直弼の生涯を描いたNHKの大河ドラマ”花の生涯”で井伊家の歴史と彦根城の存在を知る。彦根城は、もちろん軍事力を備えた城であるが、ここで戦闘があった歴史はない。しかし徳川幕府の始まりから終焉まで、内外交の重要な舞台であったようだ。今に残る天守はその重みをしっかりと受け継いでいるように見える。(2014年4月6日)
 
 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦で勝利した 徳川家康は、敵将石田三成の佐和山城を腹心の井伊直政に与える。井伊直政は徳川四天王の一人と謳われた勇将。井伊家は平安時代中頃より遠江引佐郡井伊谷(いいのや)を本拠としていた豪族の子孫。父親が今川の謀略により殺され、身を潜めていた15歳のときに家康に見いだされ召抱えられる。本能寺の変の際は堺から三河へ逃げる家康に従い、また滅亡した甲斐武田の旧臣を直政に預け、武田の「赤備え」の甲冑を身にまとった軍団を継承させた。
 この「赤備え」の軍団は関ヶ原の戦でも大いに活躍し、西軍の主力の一つ島津の軍団を襲い、島津義弘の子豊久を討ちとる。しかし井伊直政は伏兵の狙撃により負傷し佐和山に入城した2年後にこの傷がもとで42歳の生涯を終える。   家康は直政の子、直継に命じて佐和山城を捨て、新たに彦根山(金亀山)に城を築かせる。慶長8年(1603)に始まった築城工事は大津城の天守を移築して慶長11年(1806)に天守閣は完成したが、慶長19年(1614)大坂冬の陣で工事が中断。元和8年(1622)に20年の歳月をかけてようやく完成した。築城に際して家康は近隣の大名に助役を命じ、いわゆる天下普請で行われた。
 彦根城が位置する琵琶湖東岸は東山道と北国街道の分岐にあたる要害の地。また琵琶湖の水運の要害の地でもある。秀吉が側近の石田三成を佐和山城に配して東国の家康を牽制したように、家康もこの地に最も信頼のおける井伊直政を配して大坂方を牽制した。豊臣滅亡後は西国大名への押さえの城として重要な役割を持った。

 彦根山は海抜136mの山。山頂に東西約120m、南北80mの本丸を置き、東西19m、南北11mの3重3階の天守が築かれた。この天守は廃城となった大津城の天守を移築したものとされ、もともと5重の天守だったものを3重に変更して移築されている。彦根城は平山城と分類されるが、山麓に居館をおき、山上に郭を儲ける縄張りであることから山城との見方もある。また、長細い形の彦根山を大きな堀切で3分割してそれぞれが独立した防御機能を持つ。竪掘り、登り石垣を各所に用い、近世城郭でありながら戦国時代の顔を持った城とも言われている。 

彦根藩 歴代藩主
 家紋  入封時期  禄高 入封時藩主   
慶長6年
(1601)
18万石 井伊直政(譜代)上野高崎から入封 居城を佐和山城とする
慶長8年
(1603)
18万石 井伊直継(譜代・井伊直政の子)居城を佐和山から彦根城に移す 直継ぐは病弱であったため大坂冬の陣に参戦できず。上野安中へ3万石で転封される。弟の直孝が家督を継ぐ(2代目城主)

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