日本の城ある記(関西の城・安土城)

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 安土城  (あづちじょう)



訪問記
 もう何十年も昔のことだが、一度だけ安土城を訪れたことがある。その時の印象は石段ではなく登山道のような道を登って頂上にたどり着き、そこには円形に礎石が並べられた天守台があったこと。それともう一つ思い出すのは頂上に着く途中にかなり広いスペースがあり、そこには工事資材か、あるいは切り出した木材を下ろすためのワイヤーが張られ、それを不用意にも私が跨いだために工事関係者から大声で怒鳴られたこと。勿論、その時も安土城が織田信長が築いた城であることは知っていたし、本能寺の変後に焼失したことも知っていた。天守台の礎石が円形に配置されていた理由も天守閣の下部が正方形でなかったことによることも知っていた。しかし、天下を目指した男の築いた天守台跡に立っても特別な感慨は湧かなかった。しかし今回は違った。おそらく天守台へ向かう石段は平成になってから復元整備されたのだろう。前回はなかったように思う。城は本来敵の攻撃を防御するための役割ではあるが、安土城は訪れるものにその権威を見せつけるための役割を重要視して築城されたことを実感として納得。現代の都会人にとって天守台に向かう石段を登るのが楽なことではないが、当時では広く、直線的な登城道は異例のことだったに違いない。それだけに信長の天下布武の自信とその度量に敬服する。夢が成就する前に本能寺で命を落とすことになったが、天守台跡に立って遠く琵琶湖を望むと、信長は自身の運命を予感していたのではないかと思えてくる。無神論者の信長といわれているが、全ての生き様は虚構と悟り、本能寺で炎に包まれながら安土城と共に崩れ落ちる自分自身を見ていたような気がする。
(2014年4月5日)
 
 織田信長が近江安土に築城工事を開始したのは天正4年(1576)。翌年の天正5年(1577)には城郭工事が一応完成した。天正6年(1578)には諸将を招いて安土城で茶会を催している。天守が完成したのはその翌年の天正7年(1579) 城郭の規模からしてそのスピードは驚くべきものだ。築城の総奉行を務めたのは信長側近の武将・丹羽長秀。長秀は信長が仕掛けた合戦のほとんどに参陣し統率力には定評があった。同様に側近の一人柴田勝家も統率力には定評があるものの人夫の食料や賃金を管理する能力は乏しかった。長秀は朝廷との交渉や堺の豪商との折衝もこなすなど交渉力経済手腕もあったとされる。おそらく織田勢の総動員態勢で行われた築城工事であるから、諸将を有無を言わせず使いこなす能力が必要になる。諸将に信望があることも条件になる。この点では新参の秀吉には無理があった。大工事を短期間で完成させるために丹羽長秀を総奉行としたことは、信長には人を見る目が備わっていたといえる。
 
安土城に使われた石材の中でも有名なものに「蛇石」と呼ばれる巨石がある。フロイスの「日本史」の記述に”特別の大石は6,7000人が引いた。一度少し片側に滑った時は、150人以上が下敷きになって押し潰された”とある。「信長公記」にも”この巨大な石を津田坊という者が麓まで運んできが重すぎて山にあげることができない。そこで信長は丹羽長秀、羽柴秀吉、滝川一益らに命じ1万人の人数を動員する。石の上に遊女をのせて、踊りや歌に合わせて人夫を励まし、3日3晩掛って引き上げた”とある。しかし、安土城の遺構にこのような巨石は見当たらない。この石に関していろいろの説があるが、一説によると天守台の真下に埋められているのではないかという。もともと安土山の地盤は軟弱で、巨大な天守を建てるためには現在地表に見える礎石だけでは不十分だという。大石が引き上げられたことが事実なら、なんとも信長らしいロマンのある話に思える。信長の夢の舞台にはまだまだ謎が隠されているようだ。


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