日本の城ある記(関西の城・八幡山城)

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 八幡山城  (はちまんやまじょう)

訪問記
 安土城を見た後に八幡山城に登った。登ったといっても標高283mの山頂にある本丸跡までロープーウェイを利用してのことだから造作はない。八幡山城を築いたのは羽柴秀次。秀次は秀吉の姉・日秀の子で秀吉の養子になった人。天正13年(1585)に紀伊雑賀攻めや四国平定で軍功を挙げ、43万石を拝領して八幡山城の城主となる。このとき秀次は18歳であった。築城には安土城の資材を活用したといわれる。山上には総石垣造りで本丸、二の丸、北の丸、西の丸、出丸などが配置され、15m四方の天守台も築かれて天守が建てられていたとされる。しかし安土山と違って八幡山は険しく、麓の居館が城の中心となっていたようだ。安土からは築城資材だけでなく、城下町そのものも移転させた。城下には今も近江商人の商人町の風情が残っている。
 秀次は天正18年(1590)秀吉の小田原征伐に参陣し、山中城の攻撃ではわずか半日で落城させるなど武勲をあげる。同年に100万石を拝領して尾張清洲城に転封となる。代わって京極高次が2万8千石で入城する。
 天正19年(1591)8月、秀吉の嫡男・鶴松が死去。その年の11月、秀吉の数少ない縁者として秀次は秀吉の養子となる。さらに12月には秀次は関白にまで出世している。ところが文禄2年(1593)秀吉に秀頼が生れると秀次は秀吉から疎んじられるようになり、文禄14年(1595)には秀次は秀吉より謀反の疑いをかけられて高野山に追放、そして切腹させられる。秀次28歳の生涯であった。この事件のすぐ後に八幡山城は廃城となった。僅か10年の短い存在だった。
(2014年4月5日)
 


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