日本の城ある記(関西の城・水口城)

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 水口城  (みなくちじょう)

訪問記
 水口城へは草津からJR草津線で貴生川駅まで行き、そこで近江鉄道に乗り換えて一駅、水口城南駅で下車。歩いて5分のところにある。江戸時代、東海道の宿場町として栄えた水口も今はローカル線で行き来する。もっとも、道路は良く整備されており車を使えば京 、大坂からも便利な場所だ。
 水口には二つの水口城があったという。一つは関ヶ原の戦の際に落城した水口岡山城。もうひとつが江戸時代に築城された水口城で、私が今回訪れた城である。江戸時代に作られた水口城は寛永9年(1632)に築城が始まり、寛永11年(1634)に完成した。石垣などは水口岡山城の石垣が転用されたという。本丸と東出丸とそれを取り囲む堀だけの縄張りのこの城は、戦闘を目的としたものではなかった。三代将軍家光が上洛の際の宿泊施設として造られたもの。それも家光の上洛は寛永11年(1634)の一度だけで、それ以後将軍の上洛は幕末の時期を除いて行われていないので、水口城が将軍宿舎として使われたのはたった一回だけであった。したがって造られた時は”城”ではなく”水口御茶屋”と呼ばれた。もっと上洛といっても30万の大軍を引き連れての行軍であり、上洛そのものが軍事行動の一環であればその宿舎が”城”と呼ばれても不思議ではない。
 50年あまり城主のいない城であったが、天和2年(1682)石見吉永から加藤明友が2万石を拝領して入封。水口藩が成立する。加藤氏は一度下野壬生へ転封されたが、また水口に戻っている。
 明治になり水口城は公売処分となり、建物だけでなく石垣までもその対象として売却される。現在隅櫓(史実に基づかない建物)が建てられている石垣も建物と同時期に再建されもののようだ。それでも、訪れた時が桜の季節であったせいか、結構いい雰囲気のお城の姿だった。(2014年4月6日)

水口藩 歴代藩主
 家紋  入封時期  禄高 入封時藩主   
天和2年
(1682)
2万石 加藤朋友(外様)石見吉永より入封  
元禄8年
(1695)
2万石 鳥居忠英(譜代)能登下村より入封  
正徳2年
(1712) 
 2万5千石 加藤嘉矩(外様)下野壬生より入封   

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