日本の城ある記(関西の城・膳所城)

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 膳所城  (ぜぜじょう)

訪問記
 京都を日の出前に出発して、琵琶湖畔の膳所城についたとき、ちょうど太陽が登り始めた。今日はこれから三井寺、安土城、八幡山城、長命寺を訪れる予定である。ちょっと欲張った計画なので暗いうちからの行動となった。

 
京阪電鉄の膳所本町駅で下車して、琵琶湖畔を目指してのんびりと歩く。まだ薄暗く人影はない。膳所城跡は10分も歩けば到着する。遺構らしきものはほとんどないと聞いていたので、城跡見物といっても期待はしていなかった。公園となっている城跡の入口に立つと背後から突然声をかけられた。”ラジオ体操の場所はここでいいか”と訪ねられる。振り向くと私と同年輩の気のよさそうな男がいる。私を地元の人と思ったのか、おそらくこんな早くに城跡見物に訪れる者などいないと思ってのことだろう。公園内では何人かの人が集まっていたので”そうじゃないですか”と返答した。訪ねた人は納得したのか、軽く頭を下げて人の集まっている所へ急ぎ足で向かっていった。ここは城跡ではなく地元の人たちの憩いの場なのだろう。私も余生を送るならこんな場所もいいのかと、三井寺の山門が開くまでの一時を公園のベンチに座り太陽の光によって変化する琵琶湖の水面に見とれた。
  大津と瀬田橋の中間に位置する膳所は交通・商業の要地。大津城は関ヶ原の合戦の際、西軍の攻撃を受けて陥落した。大津城は近くの山から俯瞰されるという欠点があったされる。慶長6年(1601)家康は戸田一西に大津城を廃して膳所に築城を命じる。京都守護の最前線の役割を持った城として位置づけられていた。歴代城主も譜代大名が勤めている。
 琵琶湖に突き出すように築かれた本丸が水面に浮かぶように見えたという。現在は埋め立てられているが、湖岸に立てば在りし日のお城の情景が浮かんでくる。(2014年4月5日)

膳所藩 歴代藩主
 家紋  入封時期  禄高 入封時藩主   
慶長7年
(1602)
3万石 戸田一西(譜代)近江大津より居城を移す  
元和3年
(1617)
3万石 本多康俊(譜代)三河西尾より入封  
 元和7年
(1621)
 3万1千石 菅沼定芳(譜代)伊勢長嶋より入封   
 寛永11年
(1634)
7万石  石川忠総(譜代)下総佐倉より入封   
慶安4年
(1651) 
7万石  本多俊次(譜代)伊勢亀山より入封   

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