日本の城ある記(関西の城・小谷城) 

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 小谷城  (おだにじょう)

 
城ある記
 米原駅を北陸本線の始発電車に乗り河毛駅で下車。ここから歩いて約40分。小谷城の登城口に着く。
 小谷城は伊吹山系の支脈・小谷山の尾根上に築かれた城。広大な城域を持つ山城で、ガイドブックには一日で全てを回り切るのは無理とも書いてあったが、無理を承知で清水谷から追手道を登り、番所から主郭部へ。六坊から大嶽(おおづく)に登り、福寿丸、山崎丸を経由して下城する予定。今日一日をここで費やす覚悟で、まずは金吾丸を目指して登城開始。
 ここに最初に城郭を築いたのは大永3年(1523)頃、守護職の京極氏に仕える国人領主・浅井亮政(あざいすけまさ)で、小谷山の最高所にある大嶽に本丸を築く。築城当時、大嶽には大嶽寺という廃寺の跡があり、その跡地を利用して短期間に築城したという。
 室町幕府の勢力が衰退しつつあった16世紀の前半、近江では南が六角氏、北を京極氏が支配し、互いに覇を争っていた。京極高清が当主の時、長男と次男による跡目を巡る争いが起こる。浅井亮政は長男(京極高延)側につき、京極氏の実権を握って小谷山の城郭に京極高清、高延親子を住まわせた。これより浅井氏三代に亘る湖北支配の始まりとなる。
 金吾丸への途中に展望の良い峠がある。ここから織田信長が小谷城を攻略したとき本陣とした虎御前山、琵琶湖湖畔には秀吉が凋落した山本山城のあった山本山。琵琶湖には竹生島が浮かんでいるのが見渡せる。
 金吾丸は朝倉宗滴が布陣した場所で、宗滴の別名からその名が付いた。宗滴は文明8年(1477)越前守護・朝倉孝景の8男として生まれ、兄の氏景を支えて朝倉氏の繁栄を築く。大永5年(1525)浅井氏と六角氏との調停のため小谷城に出張り、宗滴はこのとき金吾丸を築いて在陣したという。これを切っ掛けとして朝倉氏と浅井氏は緊密な関係となった。 
   
 小谷城の主郭部への入口に番所が設置されていた。登城道に面して南北に細長く石垣を組み、腰曲輪が番所の周辺に点在している。番所の北側の奥に石垣を組み一段高くした平坦地があった。と説明書き書いてあるが石垣の存在がよくわからなかった。誰かが石を持ち去ったとも思えないが。
   
 番所のある曲輪の上部に主郭部があり連続して曲輪が築かれている。主郭部の最先端に御茶屋と呼ばれる曲輪がある。曲輪の真ん中に低い土塁があり、曲輪が前後に分割されている。御茶屋という優雅な名前が付けられているが、曲輪の前部分は攻撃・防御を目的とした軍事施設そのものの造りである。後ろの部分には庭石として使用されていたと思われる石が多数散乱している。池の跡らしい窪みもあり、僅かに水が溜まっていた。 
   
 御茶屋曲輪の上段に御馬屋曲輪がある。文字通り、馬屋があったかどうかは分からないらしい。三方を高い土塁に囲まれ、曲輪の中央部に井戸があったことが確認されている。曲輪の後方、桜馬場と呼ばれる曲輪の土手下に馬洗池と呼ばれる方形の池が二カ所ある。説明文によると実際に馬を洗う池ではなく、桜馬場曲輪に侵入するのを防ぐための池のようだ。この曲輪の清水谷側の斜面から本丸後方まで、帯曲輪が設けられている。
   
 大広間、黒金門の南に位置している曲輪。南北に長い曲輪で、東西2段で構成される。西側は一段低くなっているが東側より南北に長く、その先端からは信長の本陣であった虎御前山を見ることができる。 
   
 桜馬場から大広間へ向かう手前、首据石の前から東側に抜ける道がある。本丸東側の土手下にある腰曲輪へ至る道で腰曲輪は3段に築かれている。ここに浅井長政の重臣である赤尾清綱の屋敷があった。天正元年(1573)織田信長の城攻めに浅井長政は黒金門から打って出たが、信長勢の攻撃に退却を余儀なくされ、本丸に帰ることもできず赤尾清綱の屋敷に至って自刃し最期をとげた。 
   
 桜馬場から大広前へ向う手間、赤尾屋敷に至る道の入口に首据石と言われる岩がある。浅井長政の祖父であり初代の小谷城主であった浅井亮政(あざいすけまさ)は天文2年(1533)六角氏との戦の際、家臣の今井信秀が敵方に内通したとして斬首し、その首をこの石の上にさらしたと伝えられる。 
   
 大広間・本丸のあった曲輪の虎口には黒金門と呼ばれた重厚な門があった。黒金の呼称から鉄を打ち付けた門であったと推測される。大広間は別名「千畳敷」とも言われた広大な面積の曲輪。長さ約85m幅約約35mで全面(南側)には高さ4mの石垣が組まれていた。建物跡、石組みの井戸跡、蔵跡が確認されている。 
   
 大広間の北側に高さ約12mの石垣を組み、南北に約30m、東西に約25mの広さを持つ曲輪。浅井長政が落城寸前まで居住していた所とされる。本丸の北側は大堀切で守られている。 
   
 中丸は本丸とは大切堀で区切られた曲輪で、南北3段で構成されている。3段目と2段目の間、1段目の南側正面に小規模な石垣が現存している。 中郭部の各曲輪の虎口は側面につけられているが、中丸の虎口は中央部に造られている。3段目の曲輪の奥には刀洗池がある。また、清水谷側には御局屋敷と通称された腰曲輪が附属している。 
   
 近江の守護職であった京極氏の屋敷があったことからこの名前が付いた。大広間に次ぐ広大な面積の曲輪。南北に4段の構造を持ち、西側(清水谷側)に桝形虎口を持つ大きな曲輪が付属していた。この曲輪の虎口は清水谷から登る「水の手」とつながっている。これは天正元年(1573)の織田信長による城攻めの際、秀吉が攻め上がった道である。東側に築かれた土塁は3mほどの高さがあり、小谷城では最大の規模である。京極丸が攻め落とされて小丸と本丸との間が分断され、小谷城陥落の端緒となった。
   
 京極丸の上段に位置し、二代城主浅井久政の引退した後の住居と伝えられる。秀吉に攻められて京極丸が陥落すると、久政は自刃して最期と遂げた。、 
   
 山王丸は標高400mに位置し、小谷城の詰の城の役割を持った曲輪。南面に馬出を設け、石垣で固められた虎口を二重に築いている。中央の曲輪には山王社を祀っていた。南側正面および東側には小谷城では最大の石を用いて石垣を築いている。山王丸から清水谷に向けて搦手道があったと推定されている。 
   
 山王丸から六坊までは岩場の急坂もある長い尾根道を下ることになる。特に老人(私のことだが)は急いで膝を痛めないように慎重に下るべし。尾根道からは大嶽(おおづく)の頂が展望出来る。 
   
 二代城主浅井久政の時代に領国内に散らばっていた有力寺院六社の出張所が置かれた。有力寺院六社は軍務・政務を司っており、その連絡に不便のため、ここに連絡所を集めたと言われている。西側(清水谷側)には腰曲輪を設け、東側には竪堀が数本掘られている。曲輪内は5、6段に連なって整地されている。 
   
 大嶽(おおづく)は初代城主浅井亮政が大永3年(1523)頃に築城したと推定されている。小谷山最高所に位置し、築城当時は小谷城の本丸であった。浅井氏の勢力拡大とともに城域を拡大、本丸を現在の位置に移している。現在残る大嶽は浅井氏と同盟関係にあった朝倉氏によって改修されたもの。天正元年(1573)の織田信長による小谷城攻撃の際、朝倉氏の援軍が大嶽を守備していたが形勢不利とみて撤退。織田軍に占拠された。
 大嶽には六坊と清水谷への分岐点から登る。見るからに急坂の登坂が予想され、案内板には大嶽まで540mの表示。山王丸から六坊への急坂の下りで少し膝の調子が悪いが、ここまで来たのだからと登り始める。途中、小谷城の主郭部が展望できる場所もある。頂上からの展望も素晴らしい。雄大な景色にしばし休息をとり膝の調子もよくなったようだ。
   
 六坊と清水谷への分岐点から大嶽に登るのと反対に、大嶽から福寿丸への下りはなだらかな尾根を行く。福寿丸は元亀3年(1572)に朝倉氏によって改修された城郭。ここを守備していたのが朝倉氏の武将・木村福寿で、その名前をとって福寿丸と呼ばれている。南北2つの曲輪からなり、その南側が主郭と推定される。虎口は北と南に2カ所ある。東の曲輪は迷路状のたまりを設けた複雑な構造。北側に横堀、東斜面には竪堀が掘られている。 
   
 福寿丸から尾根を下って山崎丸に至る。福寿丸と同様、朝倉氏によって改修された城郭。朝倉氏の武将・山崎吉家が守っていたことから山崎丸の名前が付いた。虎口は2ヵ所、北と南にある。北の虎口は導入路を長くとって、土塁を高くし、直角に曲がるなど迷路のような構造を持つ。城郭は中央の桝形門によって南北2つにの曲輪に分けられ、北の曲輪が主郭とされる。南の曲輪の外側に横堀が掘られ、それをコの字状に土塁で囲む横矢懸けの構造をもつ。東側斜面には竪堀が掘られている。 
   
 小谷城の浅井長政が織田信長によって攻められる端緒となったのは信長による朝倉攻めである。信長は永禄10年(1567)に美濃稲葉山城を落として斎藤龍興を追放する。美濃を支配圏に置いた信長は隣国となった北近江の浅井長政と同盟を結び、信長の妹・お市が長政に嫁いでいる。元亀元年(1570)4月に信長は朝倉氏の越前に侵攻する。このとき信長と同盟関係にあった長政であったが、朝倉氏との関係を重視した長政は信長に反旗をひるがえすこととなった。信長は退路を断たれることを恐れて秀吉、明智光秀に殿軍を任せて逃げ帰っている。一旦岐阜に兵を戻し体制を整えた信長は、その年の6月に今度は浅井長政を討つため出陣する。信長軍2万、徳川家康の援軍5千、合わせて2万5千の軍勢で、小谷城の支城である横山城を攻める。浅井軍8千と朝倉の援軍1万が横山城救援のため姉川まで進出、横山城を攻めていた織田徳川連合軍は方向転換して姉川で浅井朝倉連合軍と対峙、戦闘となった。これが後世に伝えられる姉川の戦である。戦は徳川軍に側面を攻められた朝倉軍が敗走を始め、これを切っ掛けに浅井朝倉連合軍は総崩れとなり、織田徳川軍の完勝で終わる。このとき信長は小谷城を攻めず、横山城に秀吉を配し軍勢を引いている。
 いわゆる信長包囲網に苦難を強いられていた信長だが、転機が訪れる。天正元年(元亀4年・1573)武田信玄が病死する。室町幕府将軍足利義政は信長包囲網のリーダーであったが槇島城で織田軍に攻められ降伏。信長包囲網が崩れる。また浅井氏重臣の山本山城を守る阿閉貞往(あつじさだゆき)が織田側に寝返る。これを好機とした信長は8月に小谷城攻めを開始する。小谷城近くまで侵攻した織田軍に対して朝倉義景は自ら兵を率いて援軍を派遣するが、前哨戦で敗れて敗走。小谷城に大嶽など城郭を築いて籠城していた朝倉軍5千も退却する。織田軍は朝倉勢を追って越前に侵攻。朝倉義景は一乗谷に逃げ帰るが、織田軍の猛攻に自刀し朝倉氏は滅亡する。信長軍は朝倉軍を壊滅させるとすぐに小谷城に反転し、8月26日に御前山城に布陣。小谷城の総攻撃を開始。27日に秀吉が長政が籠る本丸と久政の籠る小丸との間の京極丸を攻めて占拠。本丸と小丸との連絡を絶たれ、久政は自刀する。9月1日に長政も自刃して最期をとげる。
 

 織田信長に攻められ29歳で最期をとげた浅井長政。その正室・お市は信長の妹。長政との間に三人の娘をもうけた。お市と三人の娘は長政の指示により小谷城を脱出して織田家に戻った。お市は天正10年(1582)に柴田勝家と再婚する。三人の娘のうち長女の茶々は秀吉の側室となり秀頼を生んでいる。三女お江(お江与)は二代将軍となった徳川秀忠に嫁ぎ三代将軍となる家光を生んでいる。それぞれ戦国時代の数奇な運命を生きた女性たちである。小谷城の落城から450年。小谷山は穏やかな農村風景の中で栄華の歴史を偲んで静かに佇んでいた。(2018年3月18日) 

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