城ある記
北近江の小谷城を見学した後、北陸本線の河毛駅から近江塩津駅へ行き湖西線に乗り継いで近江高島駅で下車。大溝城址は駅から5分の至近距離にあり、小谷城とは琵琶湖を挟んで向い合う位置にある。
この地に最初に城郭を築いたのは信長の甥(信長の弟・信行の嫡男)で浅井氏の旧臣・磯野員昌(いそのかずまさ)の養嗣子(家督を継承する養子)となった織田信澄。因みに信澄の父信行は信長に背き、敗退して自刃している。
磯野員昌は浅井氏の臣下として佐和山城を本拠としていたが、元亀元年(1570)姉川の戦のあとの元亀2年に織田軍に佐和山城を攻められ降伏。佐和山城と引き換えに近江の高島郡(大溝城のある地)を与えられた。敵将であった磯野員昌に高島郡の地が与えられたことは破格の待遇であったが、姉川の戦の際に磯野員昌は信長の本陣に迫る活躍をし、この働きを信長が認めたことにあると言われている。ただし信澄を養嗣子とすることを条件に付けられていた。これは監視の意味もあり、また将来的には織田勢の支配地域を確定させることに繋がる。天正6年(1578)員昌は信長の叱責を受け、高野山に出奔する。一説では信澄に家督を譲る様に信長から催促を受けたが、これを拒否したためという。
高島郡の所領を得た信澄は天正7年(1579)明智光秀の縄張りで大溝城を築く。信澄は信長から厚い信頼を得ており、重要な行事を任されている。また天正6年(1578)に信長の勧めで明智光秀の娘を妻としている。
天正10年(1582)6月2日織田信長は本能寺で明智光秀に討たれる。信澄は翌3日に信長の三男・神戸信孝を総大将とする四国遠征軍の副将(他に丹羽長秀・蜂屋頼隆)として出立する予定であったがこれは急遽取り止めとなる。信澄は光秀の娘婿であったことから、信長に対する謀反は光秀・信澄の共謀であるとの噂が流される。この噂がもとで信澄は大坂城の千貫櫓で信孝と長秀に攻められ自刃して果てる。(死亡場所等には異説もあるようだ)
信澄の築いた大溝城の正確な縄張りは分かっていないようだが、現在発掘調査が続けられている。それによると本丸は南北約57m、東西約25mの規模であったと推測されている。琵琶湖に繋がる堀に囲まれ、本丸の南東隅に天守台があったとしている。現在見ることができる大溝城の遺構はは本丸跡に崩れかけた天守台の石垣だけである。織田信長の安土城をはじめとして明智光秀の坂本城、羽柴秀吉の長浜城、そして大溝城を加えて琵琶湖四城と称されていることから、相当な規模の城郭であったと推定される。引き続き発掘調査が行われることを期待したい。
信澄亡き後の大溝城には丹羽長秀、加藤光泰、生駒正親、京極高次が入れ替わり入城する。徳川の時代になり元和5年(1619)に分部光信(わけべみつのぶ)が伊勢上野から2万石を得て入封。幕府の一国一城令に従い大溝城は破却されたが、分部光信は三の丸に陣屋を置き大溝藩の初代藩主となる。(2018年3月18日) |