城ある記
元禄11年(1698)それまで幕領であった堅田に堀田正高が下野佐野より移封され、初代の堅田藩主となる。 陣屋は琵琶湖に面し、現在ある伊豆神社の東側にあった。琵琶湖に面して今も残る石垣はその時の名残ともいわれる。中世の堀を活用して寺社、侍屋敷を配し、町屋も整備して城下町の体裁を整えていた。
堅田は古代より琵琶湖水運の重要拠点であり、湖上水運によって富裕な地域であったという。中世以降には地侍と商人からなる堅田衆による自治が行われ水運の特権を得ていた。時には堅田水軍とも称され、海賊的な行為もあったようだ。軍事的にも経済的にも重要な拠点であることから、時の権力者との間でしばしば紛争が起きている。古くは延暦寺との堅田の水運による利益をめぐる争い。戦国時代は信長包囲網に加担した堅田衆と信長との争い。信長は堅田衆を味方にして琵琶湖水運の支配権を得ている。徳川幕府は堅田を天領として大津代官所に管理させるが、中世の自治組織から続いた慣習の一部を認める政策をとっていたようだ。陣屋の南には近江八景、堅田の落雁でも名高い満月寺の浮御堂がある。堀田氏によって六代続いた堅田藩は文政9年(1826)六代目堀田正敦のとき下野佐野へ転封となり、堅田は再び天領となる。ただし堅田のうち滋賀郡領は引続き堀田氏の飛び地として幕末まで続く。(2018年3月18日)
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