日本の城ある記(関西の城・鎌刃城) 

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 鎌刃城  (かまはじょう)

ある
 12月10日朝6時。新横浜始発のひかりに乗車。名古屋で乗り換え米原に着いたのが午前8時。空気が冷たい。先週までの暖かい気候から一変、平年並みの寒さがやって来たようだ。慌てて持参のセーターを着込む
 
米原駅から鎌刃城の登城口まで歩けば1時間程度かかるとネットで探した案内書に書いてあったのでタクシーを利用する。約10分ほどで番場地区の西番場公民館に。公民館の前に観光案内所を兼ねた喫茶店がある。早朝であったので営業はしていなかったが入口に鎌刃城のパンフレットが置いてある。料金箱に100円を入れていただくことにする。下記に掲載した城の縄張り図はこのパンフレットに掲載されていたものの抜粋です。 
 ここから200mほど歩けば名神高速道路を潜るトンネルに着く。43番ガードと書いてある。入口には猪などの野生動物から農作物の被害を防ぐため、侵入を阻止する扉が設置されている。鎖のカギをほどき扉を開け、またもとのように鎖で扉を固定する。
 トンネルを抜けて少し歩けば鎌刃城大手口と書かれた案内標識がある。この先、城の主郭まで丁重に案内板が設置されているので迷うことはない。もっとも、ほぼ一本道である。
 登城路はよく整備されていて歩きやすいが、それでも本格的な山城である。勾配のきつい場所もある。前日に降った雨で積もった落ち葉が濡れている。勾配のきつい斜面につけられた登城路を歩くには少し注意を要する。
 時間を計って歩いていないのでどのくらい掛ったかわからないが、ちょっと汗ばむようになった頃に大きな堀切の跡に着く。ハイキングの気分でなく、ようやく山城の雰囲気が出てきたと、少し興奮。縄張り図を取り出し、自分の立っている位置を確認する。
 鎌刃城は標高384mの山頂に主郭を構える山城。主郭から北、南、西に尾根が伸び、その尾根上に曲輪が配置されている。私は北方の尾根を目指して登り、辿った道が築城時の大手道かどうかわからないが、案内板に従って大堀切に到達した。大堀切の前後にも堀切の跡が残っているとのことだが、明確には判別できなかった。大堀切は高さが10m、幅が20mほどあるという。現状は風化が進みなだらかな曲線だが、おそらく築城当時はV字型の鋭角に切り取られていたのだろと想像する。
 大堀切を抜けると「北Y曲輪」とそれに連続する「北X曲輪」に出る。この曲輪の西側斜面には、これらの曲輪の崩落を防ぐためであったであろう石垣が残っている。
 「北Y曲輪」には木組みの展望台が設けられているが、ここにはもともと櫓が建てられていたという。曲輪の少し北寄りに4m四方ほどの窪みがある。また曲輪の周囲に土塁の跡も見える。ここには大櫓跡の案内板もある。
 当初「北Y曲輪」は土塁で囲まれた小曲輪と考えられていたが、発掘調査が行われて土塁は単なる土塁ではなく土壁となる半地下式の建物の一部分であること、曲輪全体に建物の礎石が見つかり、それから想定すると7間×7間以上の壮大な櫓が建造されていたことが推測されるという。
 この曲輪からは城に潜入する敵を見張るのはもとより湖北地方や遠く伊吹山方面まで見渡せる。それになにより侵入した敵は大櫓の威容に圧倒されただろう。
 「北X曲輪」には石組の虎口がある。関東の山城でよく見かける横矢の仕掛けがなく、虎口の階段の一段一段の高さが低く、間口も広いのはちょっと意外に感じる。戦闘目的の城であるはずが、この構えは客人を迎える玄関口の趣さえする。もっとも虎口を囲っていた土塁あるいは建物や石垣は風化して失われてしまったのだろう。本来は実戦に見合った防御策が施されていたのかもしれない。いずれにせよこれだけの虎口を構えていることは、短期間の使用目的での砦のようなものでなく、長期的な戦略目的に沿った城であったのだろう。
 
 北尾根には7つの曲輪が配置されている。これら曲輪を通りすぎた尾根の最高所には本丸ともいえる主郭が構えている。主郭には「北X曲輪」よりは高い石組の虎口がある。「その前面には防護のための石垣が組まれ、さらに虎口に通じる石段の通路もある」と麓の案内所で手に入れたパンフレットに書いてあったが、不覚にも私は見落としてしまった。
 主郭の北側には土塁跡が残っている。最近の調査では単なる土塁ではなく石を組んで固めた強固な防壁であり、また外側斜面も主郭全周に石垣が見られ、現在は崩落が激しく目にすることは出来ないが、石垣で守られた強固な本丸であったようだ。
 主郭は他の曲輪のどれよりも広い面積を持つ。平坦に整地されているのでここに建造物があっても不思議ではないが、大櫓のような壮大な建物があったとはパンフレットには記載されていない。
   
 主郭から南の曲輪に向かう。「南T曲輪」「南U曲輪」は堀切で区切られているが尾根上に連なって配置されている。
 「南U曲輪」から伸びる西尾根には多くの曲輪が配置されているが、そこへ向かう道が見つからない。強引に突破しようと思っても急斜面である。私の運動能力から判断して「無理だ」とあきらめる。
 南尾根に向かうが、この尾根に曲輪は構築されていない。南の尾根は鎌刃城の名にふさわしく、刃先のようにとがっている。しかもこの尾根には8カ所の堀切を設けて敵の侵入を防御している。堀切を越えるのにその都度アップダウンを繰り返し、鎌刃城の水源にもなっている青龍の滝に出る。ここから「ワイルドな林道」とパンフレットに記載されている林道を下る。今年の台風の影響か、落石跡や倒木が目に付く。「ワイルドな林道」は名前負けしていない。(2018年12月10日)
 鎌刃城が築かれた番場は湖北地区にあり古来より中山道の要衝の地。戦国時代は湖南地域を支配する六角氏、湖北地方で覇権を競う京極氏、浅井氏の係争の場でもあった。鎌刃城が築かれた年代は定かではないが、 文明4年(1472)に京極氏に与する国人領主の今井秀遠が鎌刃城に籠る堀氏を攻めたとの記録があり、この頃にはすでに鎌刃城が存在していたと推定されている。鎌刃城の堀氏も国人領主であり今井氏と同じく京極氏の支配下にあったが、この時の戦は京極氏の家督相続をめぐる主導権争いであったと思われる。
 天文7年(1538)六角氏が湖北に侵攻する。鎌刃城の堀氏は降伏して、鎌刃城は六角氏の属城となる。その後堀氏は浅井氏に仕えることになったようだが、その間の経緯は分からない。
 元亀元年(1570)織田信長の越前朝倉氏攻めに際して小谷城の浅井長政は朝倉氏に与することを決断して同盟関係にあった信長に叛旗をひるがえす。浅井家に仕えていた堀氏であったが、木下(豊臣)秀吉の凋落を受けた堀氏の重臣である樋口直房の勧めで織田側に与することになる。堀氏は湖北の坂田郡で6万石の支配を任されたといわれる。天正元年(1573)の朝倉氏攻めで朝倉氏が、次いで浅井氏が滅亡すると信長は秀吉に恩賞として北近江三郡を与えた。坂田郡は秀吉と堀氏の支配が錯綜する。この時の堀氏は秀吉の与力の関係で秀吉の支配下であったようだ。
 天正2年(1574)堀氏は信長から木ノ芽城の守備を任されていたが、越前一向衆の反乱で攻められ、これに対して重臣の樋口直房は独断で一向衆と和睦する。樋口直房は城を放棄し逐電するが秀吉に討たれ、堀氏は所領を没収され追放される。同時に鎌刃城は廃城となった。戦国の時の流れに翻弄された国人領主の怨念・嘆きが聞こえてくるようだ。

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