日本の城ある記(関西の城・佐和山城) 

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 佐和山城 (さわやまじょう) 

 
ある
 鎌刃城の散策を終え、米原駅に戻ったのは12時頃だった。麓の集落・番場から米原駅まで約1時間歩くことになったので少々疲れたが、天気もよい。寒さも朝ほどではない。米原から彦根まで東海道線で移動。少し休息して彦根駅から龍潭寺まで歩き、ここから佐和山城へ登城を開始する。
 龍潭寺の境内を抜けるとすぐに山道となる。整備されてはいるが階段状の直登状態の場所もある。結構きつい。途中何度か足を休めるが何とか登り切り、平坦地に到着。そこは西の丸の下段曲輪で、土塁の跡が残っている。曲輪の北西に窪地があり、塩硝櫓跡と書かれた案内板がある。土塁の高さは1mもないが、これは自然による風化だけではなく、廃城後にともない破却されたためだろう。
 西の丸は上段、中段、下段に区分され、それぞれの間には堀が切られている。中段、上段の曲輪には見るべきものがなく樹木も生えて見通しも悪い。

 西の丸から頂上部にある本丸へ向う。かつては石垣が組まれていたであろう本丸の、今は剥き出しの土の斜面を登る。登り切ると急に視界が開けた。本丸からの眺望は素晴らしい。彦根城下を見下ろし、琵琶湖の対岸、遠くの山脈まで見通せる。この景色を、戦国の武将たちは何を思って眺めたのだろうか。殺伐とした空気の中に、一時の安息を覚えたのだろうか。それとも天下取りに一層の奮起を誓ったのだろうか。殺伐とした空気にも、天下取りにも縁のない私には、ただ夢の中に漂う一コマが過ぎ去るのを感じるだけだが、今はそれを理屈なく大切にしたい気分だ。
 広々とした本丸には他に来訪者はいない。壊れかけた椅子に座り、ちょっとセンチメンタルな気分になってもいたが、空腹には勝てない粗雑者である。駅前のコンビニで買ったサンドイッチを遅い昼食として頬張る。
 本丸の北側に虎口の跡と思わせる窪地がある。佐和山城は徹底的に破却され、資材は彦根城の建設に利用されたようだが、それにも拘らず虎口の跡が残るのは、よほど堅固に構築された虎口の構造であったのだろうか。私には破却した資材を引きずり下ろす単なるスロープにしか見えない。とはいえ、城の遺構が明確に残っている場所もある。本丸の下部に千貫井戸と名付けられた水場がある。また本丸を支える斜面に隅石垣の一部がこれ見よがしに残されている。城の破却者は消え去る城郭に情を感じ、井戸の破却を止め、隅石垣の一部を残したのだろうか。そんな思いがする。
 本丸から二の丸三の丸を経て大手口にたどり着く道があればと探したが見つからない。やむなく太鼓丸を経て下城することにした。(2018年12月10日)
 
 ここに最初に築城したのは鎌倉時代の建久年間(1190〜1198)近江守護職佐々木定綱の六男、佐保時綱とされる。その後、室町時代(1336〜1573※異説もある)後期に六角氏が当地を支配下として家臣を城代として置いた。戦国時代(1467〜1573※異説もある)後期になると六角氏の勢力が衰え、新興勢力の浅井氏が佐和山城を支配し、小谷城の支城となる。元亀2年(1571)織田信長が小谷城の浅井氏を攻め、浅井氏が滅びると、信長は家臣の丹羽長秀を城主に据える。天正10年(1582)信長が本能寺で討たれた後、清洲会議によって堀秀政が城主となる。堀氏が天正13年(1585)に転封となると代わって堀尾吉晴が城主となり、次いで文禄4年(1595)に石田三成が北近江4郡を所領として城主となる。石田三成は佐和山城の大改修に着手。五層(三層の説も)の天守を山頂本丸に築き、佐和山城を近世城郭に変貌させる。
 関ヶ原の戦で西軍の大将であった三成は東軍の徳川家康に敗れ、佐和山城は小早川秀秋を先鋒とする軍勢に攻められ落城する。石田氏の滅亡後、家康は井伊直政をこの地に移封させる。また家康は新たに彦根城の築城を命じるが、直政は関ヶ原の戦での傷が悪化して亡くなる。代わって嫡男の直継が引き継ぐ。築城は天下普請によって行われ、この際に佐和山城をはじめ大津城、観音寺城、長浜城を取り壊し、その資材を彦根城築城に活用した。慶長11年(1606)に彦根城が完成し、佐和山城は廃城となった。

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