日本の城ある記(関西の城・観音寺城) 

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 観音寺城  (かんのんじじょう)

   
ある
 まだ日の出前の薄暗い時間に宿を出て、JR南草津駅から安土駅へ。安土駅から観音寺城の登城口である桑実寺に向って歩き出す。約30分の道程で、桑実寺の山門に到着したのは午前7時半だった。実はこの時から今日一日の悲劇が始まる。もっとも、その時は悲劇でしかないと意気消沈していたが、今思えばそれなりに楽しい出来事でもあった。悲劇を招いたのは誰の所為でもなく、自分自身の不注意、怠慢なのだから、開き直って笑うしかない。
 桑実寺の山門の扉は閉ざされている。門前の張り紙には開門は9時からと書いてあった。寺から観音寺城の本丸へ至る道は桑実寺の所有地のようで、通行料も必要のようだ。通行料は致し方ないにしても、開門まで1時間半待つのは耐えられない。抜け道はないかと辺りを見渡してみたが、寺の境内に入ることは無理なようだ。仮にあっても無断侵入になる。事前に調べておけばと後悔したが、まさに後悔先に立たずである。私が観音寺城を訪れるために用意したものはネットで入手した滋賀県教育委員会作成の縄張図だけだ。これがあれば大丈夫だと、安心していたのは甘かった。実はこれ以外にも失敗を犯すのだが、本格的な山城を訪ねるにはそれなりの事前調査、準備が必要だと反省する。
 桑実寺の山門に至るには門前の集落を抜けるのだが、その集落の入口付近に観音正寺方面林道(正確な表示は忘れた)と書かれた案内板があったことを思い出す。所用時間がどれほどか分からなかったが、1時間程度であろうと想定してその場所に戻り、歩き出した。
 林道は然程の勾配もない。毎日ではないが早朝に自宅付近を1時間程度少し速足で歩いている。そちらの方がここよりハードだ。途中に古墳の案内板があり、ちょっと寄ってみたい気にもなったが止めた。天気予報では夕刻には雨が降り出すようだ。午前中には山城散策を終えたかった。先を急ぐことにする。
 30分ほど歩いた頃、林道は二つに分かれている。一方は下り、一方は登りなので、登りを選択。少し歩くと料金所のようなゲートがある。ゲート前にはこの先観音正寺駐車場、駐車場から寺まで300mの石段と書いてある(正確な表示は忘れた)。管理人らしき人はいない。ゲートは締まっているが人が通れる空間はあり、そこを抜けて更に登り坂を歩く。10分程度歩いたころに観音寺城大石垣の小さな案内板があった。人一人が歩ける程度の狭い道が急斜面につけられている。ちょっと迷ったが登ってみることにする。一歩足を踏み入れて、これは散策路ではなく登山道だ、と少し不安になる。道の両側には地元の人の記念植樹か、名札のつけられた50センチほどの高さの桜の苗木が、おそらく百本以上植えられている。登り始めて10分もかからないうちに小さな曲輪の跡に出る。烽火台と書いてある。そこから5分ほどで「埋門」のある「伝木村丸」に着く。ここにきて、ようやく山城の気分を味わうことができた。同時に辿った道が間違いでなかったことに安堵する。
 「伝木村丸」の前面は石垣で固められているが、石垣の隅に半地下式の「埋門」がある。現状は埋もれて人が潜れる状態にないが、敵の侵入を防ぐ工夫のなのだろう。
 「伝木村丸」から尾根筋に戻り大石垣に向かう。5分ほど急勾配の斜面を登ると頭上に大石垣の威容が迫ってくる。観音寺城廃城から400年以上の歳月が経過したにもかかわらず安定感を見せる石垣の、築城当時の技術力の高さは驚くばかりだ。大石垣の上部からは湖東の風景がを一望することができる。気付けば桑実寺からここまで歩き続けてきた。しばし休息する。
 「女郎岩」と名付けられた巨大な岩を通り過ぎ、さらに斜面を登ると「伝池田丸」の虎口が見えてくる。まだ山城探索は始まったばかりであるのに矢継ぎ早に城の遺構が現れることに興奮する。
 縄張図で確認すれば「伝池田丸」は本丸とされる「伝本丸」から南に伸びる尾根の先端に築かれている。南北に長く平坦に切り開かれた2700uもの広い面積を持つ曲輪である。通常の山城でこれほどの面積を持つ曲輪が構築されているのはめずらしい。しかも他にもこれに準じる曲輪が多数あり、観音寺城の城域は60万坪にも及んでいたという。
 観音寺城の曲輪の名前は「伝本丸」「伝三の丸」を除けば全て六角氏の被官の名前という。「伝池田丸」は池田氏の屋敷跡であったと想定され、古絵図に書かれた表記をそのまま踏襲している。「伝池田丸」には虎口と思われる場所が三カ所あるが、いずれの虎口も防御能力の低い平虎口で、屋敷門そのものである。
 観音寺城の全盛期にはこうした曲輪が大小合わせて八百もあったという。一般的な山城は山頂部に城郭を築き、敵から攻め込まれたときに立て籠もり、敵の攻撃を防ぐことを目的としている。しかし観音寺城は山頂から麓まで曲輪(屋敷)を配して、平時においても住居として使用されていたようだ。
これは六角氏の領国支配の形態によるものという。六角氏は信長のような専制的な領主でなく、支配下の国人領主を自由に差配することができず、重臣たちの合議制で領国経営をせざるを得なかったことにあるという。領主と家臣は一種の契約で結ばれていたともいえる。これを専制的な支配に変えようとした時、六角氏が衰退していった切っ掛けとなった。
   
 「伝池田丸」から「伝平井丸」へ通じる道は、やがては「伝本丸」に通じている。とすればこの道は大手道なのだろうか。道の幅も、石段も、それに相応しい。しかし、縄張図には明記されていない。
 「伝池田丸」と「伝平井丸」の途中に名もない曲輪がある。虎口もある。ここでは規模の小さな曲輪だが、500uほどの広さがありそうだ。さらに進んで10段ほどの階段を上がると「伝平井丸」の門前に出る。その左手にも縄張図にはないが「伝落合氏屋敷跡」と書かれた案内板が立つ立派な門構えの曲輪がある。しかし門内に入ってみるとすぐに急斜面になっている。斜面をうまく使って屋敷を建てていたのだろうか。
 「伝平井丸」の虎口に使われている石材はここまで見てきた他のどれよりも立派である。曲輪の面積も1700uあるという。
 
 「伝平井丸」から「伝三の丸」へ。そこから「伝本丸」まで直線的に階段が築かれている。この景色は安土城の石段を想起させる。階段を上り「伝本丸」に入る虎口には何も残っていないが、桑実寺へ通じる裏虎口は、ここでは珍しい「食違い虎口」となっている。(桑実寺から登城すれば、最初に目にするのがもの門であったと思うと、複雑な気分だ)
 かつて「伝本丸」は3mほどの石垣が周囲を囲っていたという。今は一部しか残っていない。面積は2100uほどだ。「伝池田丸」よりは狭いが、それでも山城としては十分に広い。「伝本丸」は江戸時代に書かれた絵図に基づき、それを伝承したもの。ここを「本丸」とすることに異論のある研究者もいるようだ。理由は城域の西端に位置すること、ここより高所に曲輪が存在することにあるようだ。しかし私はこの場所こそ「本丸」に相応しい場所だと思う。観音寺城は一般の山城とは性格の違う山城である。そもそも観音寺城は最高所に本丸を築き、そこに天守を建てることなど想定していない。平時の生活の場が重視された城ともいえる。事実、強力な敵が攻め込んだ時、徹底抗戦することなく城を捨てて退却することも過去にあった。その後機を見て奮取している。桑実寺は六角氏と関係の深い寺院で、その寺院と一本道で通じていることに道理がある。直線的に造られた階段の立派な大手道が存在する(但し、これを大手道とすることは、発掘調査の結果から疑問視する意見があるようです)
 「伝本丸」には藪ツバキ(多分)の花が咲き乱れていた。しかしそれと対照的に巨木が何本かなぎ倒されている。今年の台風によるものかそれ以前のものか分からないが、余りにも荒れた風景を見るのは寂しい。入城料を徴収してでも整備されることを期待したい。クラウドファンディングによる城郭整備基金の創設も考えていい時期ではないだろか、と勝手な妄想をして、本心では自分自身は無関係であろうとする。
 
   
 「伝本丸」から観音正寺へ向かって歩くと「三角点」の方角を示す案内板があり、急斜面に道が開かれている。多分これが「大土塁」のある尾根に続く道に違いないと思い登る。200mほどの、時間にすればそれほどでもなかったが、急斜面をほぼ真直ぐに続く道はきつい。登り切った地点は三角点のある場所でなく、尾根とさらに続く三角点への道の分岐点だった。三角点への道を少し歩いたが、城址らしきものは見当たらないと、分岐点まで戻る。尾根上を進むことにしたが、はたしてこれが大土塁とされる尾根なのか確信が持てない。さりとて他に尾根が見当たらない。大土塁のある尾根だとすれば縄張図にはこの地点に「伝沢田丸」の表示があるが、現地にはそれを示す案内板や標識はない。自分が今立っている場所がはっきりしないが、尾根上に造られた道はしっかりしているので、行けるところまで行ってみようと歩き出す。
 「大土塁」は尾根上に、敵の侵入を防ぐために土塁を築いた、いわば万里の長城の小型版をイメージしていたが、違っていたようだ。現状から見る限り、尾根に盛り土をして土塁を築いたのではなく、尾根そのものが土塁の役割であったようだ。縄張図には尾根の北側は急斜面となっており、南側には曲輪が隙間なく築かれている。縄張図で見る限りでは、確かに尾根が土塁の役割を果たしているようだ。しかし現状は、南側にも曲輪の形跡は稀にしかない。尾根のほとんどは両サイドが勾配のきつい斜面である。しかも縄張図にあるように曲輪の案内板や標識はないので、自分が今どの地点にいるのか全く分からなかった。
 20分くらい歩いたころだったと思う。一段高い尾根上に「佐々木城跡」を示す記念碑が現れた。建立したのは大正4年とある。六角氏は近江の守護職であった佐々木氏を先祖とする。それゆえこの城を佐々木城と呼んだのだろうか。碑を建立した大正4年当時は観音寺城でなく佐々木城と呼称することが一般的だったのだろうか。それともこの碑は全く別な城を記念しているのだろうか。
 佐々木城址の記念碑の前(記念碑は南向きに建てられているので正確には後ろ)に案内板があり、ここは「奥の院」と「ねずみ岩」との分岐点になっているようだ。縄張図しか持ってこなかった私にはその両方ともどこへ向かっていくのか理解できない。しかも佐々木城址の記念碑も縄張図には記載がないので、どちらの方向に行ってよいのか迷う。尾根伝いに進むのであれば「奥の院」の方角だが、入口が明確ではなく、その先も下草が生えて明瞭ではない。しかも1mほどの段差がある岩場を降りる必要があるように見える。迷ったが、少々歩き疲れも出てきた。明瞭な道が続いている「ねずみ岩」の方角に進むことにした。
   
 佐々木城址の記念碑からねずみ岩の方角に向かったが、結局は尾根筋から離れ観音正寺の参道に降りることになった。しかし降りた地点がどこであるのか正確に把握できていなかった。それでも足が勝手に動き出す。
 少し歩くと「伝淡路丸」の標識がある。この名前には見覚えがある。縄張図に記載されていたと、分かったつもりで小高い丘を登り「伝淡路丸」の曲輪を探索。外壁に石垣が組まれているが、曲輪の中は樹木が生い茂り自由に歩き回れる状態ではない。一通り目を通して曲輪を離れる。
 ここで縄張図を取り出して自分がいる場所を確認すれば間違いは起こらなかった。それをしなかった、その時の自分の気持ちがどうであったのか、今になってもよくわからない。
 またしても足が勝手に動き出す。観音正寺とは反対側へ歩き始める。駐車場があり、その先に車道、おそらく林道が続いている。私の意識の中に、この林道は朝に辿った林道と同じでいずれ大石垣へ向かった地点に出るのだろうと、そんな考えがあったと思う。しかし10分ほど歩いて、間違いに気づく。この時点で戻ることもできたが、なんだか面倒になった。車が通る道なら人も通れる。時間がかかってもいずれどこかの街に出るだろうと、やけっぱちな気分でいたのだろう。結局1時間以上は歩いただろうか、五個荘という町に出る。人通りはなかったが、バス停がある。幸いなことに15分ほど待てばJR能登川駅行のバスが来る。
 朝の失敗と、帰り道の失敗で頭の中が一杯になり、城跡見物したことが抜け落ちている。(2018年12月11日) 

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