日本の城ある記(関西の城・坂本城) 

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 坂本城  (さかもとじょう)

ある
 かつてここに豪壮絢爛な城郭があったと言われても、想像することさえ難しい。城址とされる場所には何等の遺構もないに等しい。城のあったとされる場所は起伏の全くない平地である。前面には琵琶湖、後背地には比叡の山脈が迫る。これは天然の要害地なのだろうか。逆のように思える。北陸から京へ通じる交通の要衝であり、琵琶湖水運を利用した物資の集散地であったとしても、果たしてこの地が戦国時代の城郭に相応しい地なのか疑問に思う。
 元亀2年(1571)織田信長による延暦寺焼討の後、その功績により信長は明智光秀に近江志賀郡(5万石)を与える。光秀は琵琶湖の南、坂本の地に城を築く。南近江は平定されたが、小谷城の浅井、越前の朝倉は健在である。元亀3年(1572)には武田信玄が遠江に侵攻し徳川家康を三方ヶ原で敗走させている。将軍足利義昭は信長と敵対し、信長包囲網が形成されつつあった。その時に戦時の城でなく平時の城を築いたのは、凡人の私には理解しがたい。城郭を築くに際して、戦略戦術に長けた光秀は何か特別な仕掛けでもしたのだろうか。
 坂本城は兵站基地の役割であったのかもしれない。交通の要衝であり物資の集散地であることは、その適地でもある。光秀はここを拠点として近江の平定を目指し、天正3年(1575)には信長の命により丹波国の攻略を開始する。天正5年(1577)に亀山城を攻略してここに拠点を築く。天正7年(1579)に丹波国を平定すると、その勢いで丹後国も平定する。
 信長は光秀の働きを称賛し丹波一国(29万石)を与える。天正9年(1581)織田信長は自身の権威を見せつける大規模な軍事パレード「京都御馬揃え」を行うが、この差配を光秀に任している。光秀も全力を尽くしてこの任に当たったと思う。翌、天正10年(1582)本能寺の変が起こるとは誰も想像できなかっただろう。
 本能寺で信長を討った光秀は安土城を目指すが、瀬田川の橋が破却されて渡れず、坂本城に入った。この後光秀は坂本城を出て山崎で秀吉と戦うが、これに敗れ、坂本に敗走する途中で農民に襲われ死去したとされる。俗説では天海僧正となって徳川家康に仕えたといった荒唐無稽な話もあるが、物語的にはこの方が面白い。
 光秀亡き後、天下の支配権を得た秀吉は丹羽長秀を坂本城の城主とし、次いで杉原家次、浅野長政と城主が変わる。天正14年(1586)浅野長政が城主の時、秀吉の命により長政は大津に新たな城を築城。築城は坂本城の資材を活用して行われた。これによって坂本城は廃城となった。元亀2年(1571)の築城開始から廃城まで15年の短命であったが、激動の天正時代を生きた城であった。(2018年12月11日)

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