日本の城ある記(関西の城・二条城)

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 二条城  (にじょうじょう)

訪問記
 京都に歴史の上で重要な役割を果たしたお城が存在することは知っていた。しかし何故かこれまで一度も訪ねたことはない。京都は小学生の時の修学旅行以来何度も何度も訪ねた場所である。仕事でも、観光でも、それに日常的な交流はないが親類も住んでいる。そんな理由で京都へは何十回と訪れた。もっとも、それだけの回数を訪れたが、すべてを知り尽くすことができないほど京都は魅力のある都市である。 今回は大阪に商用があり、その帰途に大和郡山城を訪ねた。ここまでは予定の行動であったが、大阪での商用が早く済んだ(つまりビジネスとしては芳しくはなかった)ので大和郡山を訪ねても時間の余裕があった。そこから京都までは近鉄電車で1時間の行程である。横浜に帰るにもルート上のコースである。
 
 
二条城に着いたのは午後4時10分前。時間に余裕があると思ったが、国宝の二の丸御殿を見学するのであれば4時までに唐門内に入る必要があるといわれて急ぐ。美術品保護のために建物内の照明は薄暗い。それでも教科書や美術雑誌でしか見ることがなかった襖絵の華麗さに圧倒される。世界文化遺産に登録されているだけの価値はあると納得。
 二条城は書院造りの建物が中心で、いわゆる戦闘を意識した城構えではないと思っていたが、そんなことはなかった。江戸城や大阪城の規模に比べれば貧弱だが、並みの城以上の機能は持っている。天守台がありかつてここに天守閣が存在していた。石垣も堀も幕府の威光を京都の市民に示す場所としても有用な施設だったのだろう。時間に追われて駆け足で巡ったのが少し残念だった。もう一度ゆっくり訪ねようと思っている。(2011年6月10日)
 
 二条城は徳川家康が命じて築城された城。同じような性格の城は豊臣秀吉が京都の内裏裏あたりに造らせた聚楽第がある。聚楽第も本丸を中心に北の丸、西の丸、南二の丸の曲輪を持ち、堀を巡らせた平城であった。確証されてはいないが天守も建てられていたという。聚楽第は天正14年(1586)に着工されて天正15年には完成したという。しかし聚楽第は文禄4年(1595)に跡かたもなく破却されてしまう。もし残っていれば、家康は聚楽第を改修して利用したのだろうか。多分そんなことはない。秀吉が破却しなくとも家康が徹底的に破却したに違いない。家康にとって二条城は徳川三百年の始まりに際して重要な意味を持つ舞台装置であった。  慶長6年(1601)家康は造営総奉行に板倉勝重を任命し、西国諸大名に二条城の普請を命じた。慶長8年(1603)には天守を除く大方の工事は完成。同年に家康は重臣や公家を二条城に招き征夷大将軍の就任祝いの祝賀の儀をおこなった。徳川幕府がここからスタートすることになった。なお、天守は慶長11年(1606)に完成した。 
  
将軍就任の祝賀の儀は、慶長10年(1605)2代将軍秀忠、元和9年(1623)3代将軍家光まで家康と同じ様式で二条城で行われたが、それ以後は二条城では行われていない。 慶長16年(1611)には家康と豊臣秀頼との会見が二条城で行われた。この時家康は秀頼の成長ぶりに驚き、将来の遺恨を絶やすために豊臣家を滅ぼすことを決意した、と云われている。慶長19年(1614)の大阪冬の陣、元和元年(1615)の大坂夏の陣には二条城が大御所家康の本陣となり、家康は二条城から大阪へ出陣した。 
 
寛永元年(1624)家光が将軍となり、後水尾天皇の行幸を迎えるために二条城は大改修がされた。行幸は寛永3年(1626)に行われ、さらに寛永11年(1634)には将軍家光は30万の大軍を引き連れて上洛し二条城に入った。この頃が二条城の最盛期で、以後幕末まで将軍が二条城を訪れることはなかった。
 寛永2年(1625)に設置された二条城代は元禄12年(1699)に廃止され、代わっておかれた二条在番も文久2年(1862)に廃止された。寛延3年(1750)に落雷により天守を焼失。以後再建はされていない。朝廷の監視及び交渉役である京都所司代は二条城の北に邸宅を構えて、そこで政務を執り行ったので二条城は政庁として全く機能しなくなっていた。
 文久3年(1863)朝廷の要請に応えるため将軍家茂が上洛し、荒れ果てていた二条城を改修して宿舎とした。慶応元年(1865)再度家茂は上洛し二条城に入るが、すぐに第2次長州征伐の指揮をとるために大阪城に入り、そこで病に倒れ、慶応2年(1866)に死去する。次の将軍一橋慶喜は二条城において第15代将軍の宣旨を受ける。
 慶応3年(1867)慶喜は二条城大広間に約40藩の重役を参集させて大政奉還を宣した。家康が征夷大将軍を拝命した同じ場所で徳川幕府を閉じることになったのは皮肉な結末である。
 現在の二条城は平成6年(1994)に世界遺産に登録され、二の丸御殿6棟が国宝に指定されている。また、22棟の建物がが重要文化財、二の丸御殿障壁画954面が美術工芸の重要文化財として指定されている。
  


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