日本の城ある記(関西の城・淀城)

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 淀城  (よどじょう)

訪問記
 淀城址は京阪電鉄の淀駅(京都競馬場)のすぐ西側にある。線路の高架橋が石垣に接する(ちょっと大袈裟か)ほど近くに見える。現在城跡として残っているのは江戸時代に築城されたもの。もとは現在の城跡から500mほど北側に淀古城と呼称される城があった。木津、桂、宇治の三川が合流する天然の要害の地に築城され、船運、交通の重要地でもあり商業地として栄えた場所でもあった。戦国時代はその戦略上の重要性からたびたび戦闘の場となり、支配者も幾度となく入れ替わった。本能寺の変後に明智光秀が城を改修したとの記録もあり、山崎の合戦の折に利用されたという。
 豊臣秀吉が天下の覇者となり、秀吉は浅井三姉妹の一人「茶々」を側室に迎える。茶々は天正17年(1589)鶴松を生むが、その産所とするため秀吉は弟の秀長に命じて淀城を改修させる。茶々が「淀殿」と呼ばれたのはこれが由縁である。鶴松は天正19年(1591)に死亡するが、茶々は文禄2年(1593)に秀頼を生む。秀吉は鶴松の死後に姉の長男、秀次を養子としていた。秀次は関白にまで出世するが、秀頼が生まれると秀吉は秀次を避けるようになり、謀反の疑いをかけて文禄4年(1595)秀次を自害に追い込む。この時、淀古城の城主は木村定茲で12万石を拝していた。木村定茲は秀次を擁護していたため連座して自害させられた。同時に淀古城は廃城となる。
 元和9年(1623)2代将軍徳川秀忠は伏見城を破却して淀に築城を命じる。淀古城の対岸に宇治川と桂川を天然の堀とし、五重の天守を建てる。築城には伏見城の石材を活用して寛永2年(1625)にほぼ完成する。ここに遠州掛川から松平定綱を3万5千石で入封させた。三代将軍家光が上洛の折に宿舎として使用したこともあり、以後徳川譜代大名の赴任地としてしばしば藩主が交代する。享保8年(1723)稲葉正知が10万2千石で入封した以後は幕末まで稲葉氏が藩主を務める。
 明治維新後に淀城はいち早く廃城となり、淀城周辺の開拓も進み、本丸の一部を除いてすべて破却された。現在は本丸の石垣、堀の一部が残るのみ。淀城公園として開放されているが、保存状態は良好とは言えない。櫓の再建などの整備計画はあるらしいが、私が訪れたときは何ともわびしい限り。古城の醸し出す侘しさでなく、堀の際まで私有地であるためか、堀には建築廃材やごみが浮かんでいて見るに堪えない。ここでは城郭が地元民に親しみをもって存在していた歴史はなっかったのだろうか。立派に整備された京阪電鉄淀駅の駅舎や京都競馬場の賑わいとは対照的である。五分咲きの桜の花だけが唯一気持ちを優しくしてくれる。(2016年3月25日)

淀藩 歴代藩主
 家紋  入封時期  禄高  入封時の藩主  
寛永2年
(1625)
3万5千石 松平(久松)定綱(譜代)遠江掛川から入封
寛永10年
(1633)
10万石 永井尚政(譜代)下総古河より入封  
寛文9年
(1669)
6万石 石川憲之(譜代)伊勢亀山より入封  
正徳元年
(1711)
6万石 松平(戸田)光煕(譜代)美濃加納より入封  
葵の字 享保2年
(1717)
6万石 松平(大給)乗邑(譜代)伊勢亀山より入封  
享保8年
(1723)
10万2千石 稲葉正知(譜代)下総桜より入封  

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