日本の城ある記(関西の城・伏見城) 

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 伏見城 (ふしみじょう) 

   
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 40年以上昔のことで記憶も定かでないが、奈良から京都へドライブした時のこと。車の窓から丘の上にそびえる煌びやかな天守閣を見た思い出がある。古式ゆかしい奈良の仏閣を見た後なので、ちょっと異様な風景にも感じた。今、JR桃山駅に降り、駅前の通りから伏見城の方角を眺めても天守閣の姿は見えない。あの時はどこから天守の姿を見たのだろうか。 伏見城は短期間の間に何度か築城が繰り返された。最初の城は文禄1年(1592)太閤秀吉が自身の隠居場所として伏見指月に築く。この城は文禄5年(1596)の地震で倒壊。直後の慶長2年(1597)伏見指月から1kmほど北東の木幡山に再建される。秀吉はこの城に居住するも、慶長3年(1598)に城内で亡くなっている。
 秀吉の死後、秀吉の遺児・秀頼は大坂城に移り、徳川家康が入城して五大老の筆頭格として政務を執り行っている。
 関ヶ原の戦の時、伏見城は家康の家臣・鳥居元忠が守備していたが、西軍に攻められ落城。城の大半は焼け落ちたという。関ヶ原の戦で勝利した徳川家康は慶長7年(1602)に伏見城を再建する。翌年の慶長8年に家康は伏見城で将軍宣下の式を行っている。慶長10年(1605)家康および家康の3男秀忠は江戸から16万の大軍を率いて上洛し、伏見城で第2代将軍としての将軍宣下の式を執り行う。また同年家康は伏見城で朝鮮使節と会見している。
 慶長20年(1615)大坂夏の陣後、伏見城を廃城することが決定され城割が始まったが、元和9年(1623)に三代将軍家光の将軍宣下の式が取り壊しで残っていた本丸御殿で行われている。これ以後は伏見城は完全に破却され廃城となる。伏見城の天守は二条城へ移築され、その他の資材も福山城、淀城などに移されたようだ。
 昭和39年(1964)に5重6階の天守、3重4階の小天守、櫓門が観光用に模擬再建されている。再建当時は煌びやかに見えた天守も今はその輝きが見られない。平成15年(2003)に観光施設は閉鎖されたようだ。天守ほかの建物は残っているが、耐震強度の問題で中に入ることは出来ない。それでも、徳川政権樹立時に重要な役割を果たした伏見城を偲ぶに相応しい雰囲気を感じることは出来る。(2018年12月13日)

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