日本の城ある記(関西の城・多聞城)

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 多聞城  (たもんじょう)


訪問記
 大和国は「国のまほろば(素晴らしい場所)」「うるわしの都」と称えられるが、権力争いや戦乱と無縁であったわけではない。大和奈良には和銅3年(710)から75年間、平城京の都城があった。京都平安京へ遷都した以降も、南都と称されて忘れられた地域ではなかった。源氏と平氏の騒乱の際に、東大寺大仏殿をはじめとする興福寺の伽藍は平重衡によって焼き討ちされ、戦国時代末期には多聞城に陣取る松永久秀と東大寺に陣を張る筒井順慶と連携した三好三人衆の争いで再び東大寺の大仏殿が戦火に遭っている。
 戦国時代の大和国は松永久秀と筒井順慶の覇権争いの歴史であったという。多聞城はその争いの中で松永久秀によって築かれた城である。東大寺から北西に約一キロ離れた標高115m、比高30mの眉間寺山に永禄3年(1560)近世城郭の先駆けとなる四階櫓を持つ城を築く。久秀は眉間寺山を多聞山と改称し、築き上げた城を多聞城(多聞山城ともいう)と呼んだ。多聞と名付けた理由は久秀が信仰する信貴山の多聞天(毘沙門天)に因んでのことという。永禄8年(1562)ポルトガルの宣教師が多聞城を訪れ、その様子を本国宛の書簡に書き残している。それによれば「壁は白く輝き、世界中にこの城のように美しいものはない」と絶賛している。
 多聞城を訪れたのは2月の中旬。高取城を訪れた後の午後3時ごろ。今日の宿に決めていた奈良市内のビジネスホテルの向かう途中、近鉄奈良駅で下車して徒歩で向かう。15分ほど歩くと佐保川に出る。この川は多聞城の外堀の役割を担っていた。佐保川を総構の堀とし、松永久秀は佐保川と多聞城の間に城下町を整備したと伝えられる。佐保川を渡り、少し歩けば若草中学校への登り口に出る。城跡は中学校の用地となっている。登り口の石段わきに多聞城跡と彫られた石碑がある。中学校の敷地を取り巻く土手は結構急斜面で、おそらく築城当時は石垣で覆われていたものと思われるが、石材は多聞城が廃城となった後に郡山城の石垣に流用されたという。石段を登り、中学校の敷地に入る。門扉はあるが解放されていたので遠慮なく侵入。訪れた日は日曜日であったので人影は全くない。ここから東大寺大仏殿の大屋根がよく見える。若草山も至近の距離に見ることができる。ここに城があった痕跡はほとんど残っていないが、大和国支配を目論んで築いた城郭が目に浮かんでくるようだ。
 永禄11年(1568)織田信長が足利義昭を擁立して上洛すると、松永久秀はいち早く降伏し信長の家臣となる。信長は久秀を徳川家康に引き合わせたとき「この男は主家の三好家に背き、将軍を殺し、奈良大仏殿を焼き払った。並の人間なら一つでも無理なことを三つもやってのけた」と言ったとの逸話が残っている。久秀は信長のために数々の武功をたてたが、同時に信長に対して数度反逆している。非情の武将と評判の信長だが、久秀の所業に対しては温情的な態度で接して何度か延命をしている。元亀3年(1572)久秀は甲斐の武田信玄と内通し、信長に叛意する。織田軍に多聞城が包囲されると久秀は降伏して城を明け渡すことになるが、この時も所領は没収されたが命は取られなかった。これ以後久秀は石山本願寺との戦で与力として信長のために働く。信長は天正2年(1574)多聞城に入城し城を見分している。このとき正倉院に伝わる名香「蘭奢待(らんじゃたい)」を多聞城へ運ばせ、一寸八分(約5.5cm)ほど切り取ったとされる。
 天正5年(1577)信長は大和国の守護に筒井順慶を任命する。同時に大和国内において郡山城以外の城の破却を命じ、多聞城もこの時に破却される。近世城郭の先駆けとなった名城も築城からわずか18年で消え去ることになる。因みに後世に多聞櫓と呼ばれる長屋風の櫓は、多聞城がその起源とされる。
 多聞城が破却された天正5年(1577)松永久秀は上杉謙信、毛利輝元などの反信長勢力と呼応し石山本願寺攻めから無断で離脱し信貴山城に籠る。信長は嫡男織田信忠を総大将とする大軍で信貴山城を包囲。このときも信長は茶道具の名器「平蜘蛛茶釜」を差し出せば命は助けるとしたが、久秀は平蜘蛛茶釜をたたき割って天守に火をかけ自害する。下剋上の時代を生きた武将の最期である。(2017年2月19日)

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