日本の城ある記(関西の城・大和郡山城)

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 大和郡山城  (やまとこおりやまじょう)

訪問記
 郡山の地名は各地にある。有名なのは福島県の郡山。関東を地盤とする人ならまず最初に思い浮かべるのはこちらのほうだ。従ってここは大和郡山という。郡山の地名の由来は古代律令制度における郡の役所を置いた場所にある。日本を60余州として、その国の行政区画として郡を置いた。従って郡山の地名は各地に残った。郡山の地名のある場所は古代より政治や経済の中心地である。大和郡山は奈良に近く京の都にも近い。政治・経済の重要な位置であったことが想像できる。
 近鉄郡山駅で下車して10分ほど歩けば大和郡山城に着く。因みに近鉄の駅名には「大和」の文字がなかった。事前に地図で下調べをしていなかったが迷うことなく城跡にたどり着く。とはいえ、たどり着いたがまず目に入ったのが柳沢神社の社。しかもここは城址公園ではなく神社の敷地だと、わざわざと立て看板がある。柳沢神社は江戸中期以降にここの藩主であった柳沢家を祀った神社であることは想像できたが、見たところ城の本丸へ行くにはここを通り抜けるしかないようだ。勝手に入っていいものかと躊躇するが、神社に向かって軽く一礼してから遠慮勝ちにその脇を通り抜けた。後から分かったことだが、大手門は別の場所にあり、結局大手門から退城することになった。
 本丸天守台の登り口に逆さ地蔵の案内板。この地方には石材の調達が難しかったのか、それとも急ぎ普請の所為か、神社仏閣の墓石や石垣までもが利用されたようだ。
 天守台からの眺めは残念ながらあまりよくはない。それでも、かつてここが100万石の領主の城であったことが偲ばれる。秀吉の弟、秀長が大阪城の守りの城として広大な規模の城郭を築いた。周囲を歩いてみて、堀が以外と深い。自然の川の流れを取り入れ、城全体は高台にある。栄華を夢見た時期は短かったが、当時の活況が聞こえてくるようだ。残念ながらここは例の百名城のリストからは漏れている。私には他のどの城と比較しても遜色なく、むしろ歴史的にも重要な位置にあったと思えるのだが。(2011年6月10日)
  
 大和郡山城は秋篠川と富雄川の中間に突き出た西京丘陵地の南端に位置する平山城である。位置的に京都・奈良に近く古くから戦略上の重要拠点として攻防が繰り返された場所にある。現在の郡山城は天正8年(1580)筒井順慶が織田信長の命で築城したものが基礎となっている。 
 天正13年(1585)豊臣秀吉の弟秀長が大和・和泉・紀伊三か国100万石を拝領して郡山城に入る。入城と同時に秀長は100万石の所領にふさわしい規模に城を大改修することに着手。この地には城の石垣にふさわしい石材が乏しかったうえ、工事が大規模かつ急激なものであったので、石垣には墓石や地蔵までが用いられることになった。

 秀長による築城は、本丸に五層の天守を築き、毘沙門丸、法印曲輪、麒麟曲輪、緑曲輪、玄武曲輪等多くの曲輪が普請される大規模なものになったが、100万石に相応しい城郭であると同時に、大阪城の防護の上からも重要な位置にあったことが理由でもある。秀長は城下町の整備も着手し、奈良の市中の商人を郡山に移住させた。
 徳川の時代になって元和元年(1615)水野勝成が三河刈谷城から6万石の所領で入城。荒廃した城の修復をおこなった。その後、譜代大名の赴任地として藩主が度々交代したが、享保9年(1724)柳沢吉里が15万石の禄高を拝領して甲斐甲府から入封し、以後明治に至るまで柳沢家が藩主を務めることになった。 
 郡山城は10万坪に及ぶ広大な敷地を持つ。本丸、二の丸、三の丸は左京堀、鰻堀、鶯堀で囲まれ、城下を外堀が取り囲む構造になっている。本丸には五重五層の天守が建てられていた。現在、大手門、二重櫓が再建され、本丸他の石垣が勇壮な姿を見せて残っている。 
    

大和郡山藩 歴代藩主
家紋 入封時期  禄高  入封時藩主   
元和2
(1616) 
6万石  水野勝成(譜代)三河刈谷より入封   
元和5
(1619) 
12万石  松平(奥平)忠明(譜代)摂津大坂より入封   
寛永16
(1639) 
15万石  本多政勝(譜代)播磨姫路より入封   
延宝7
(1679)
8万石  松平(藤井)信之(譜代)播磨明石より入封   
貞享2
(1685) 
11万石  本多忠平(譜代)下野宇都宮より入封   
享保9
(1724) 
15万1千石  柳沢吉里(譜代)甲斐甲府より入封   

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