日本の城ある記(関西の城・高取城)

 関西の城 トップページへ 日本の城ある記 トップページへ 
 高取城  (たかとりじょう)

訪問記
 高取城は美濃岩村城、備中松山城と共に日本の三大山城に数えられている。日本各地にはこれ以外にも山城は多々あり、この選定に異議をとなえる人も多いと思われるが、高取城はどの山城に比しても引けを取らない城であることは間違いない。
 近鉄壺阪山駅に着いたのは朝の8時前。ここから壷阪寺まではバス便があるが、10時を過ぎないと運行はない。仮にバス便があったとしても城跡のある高取山山頂までは壷阪寺から山道を1時間ほど歩くことになる。年寄りにはきつい距離だ。それでも、場合によっては壺阪山駅から2時間強を歩くことも覚悟していたが、幸いに駅前にタクシーが待機している。これに乗れば20分ほどで城跡直下まで行くことができる。タクシーの運転手によれば昨今のお城ブームの影響で、タクシーの利用者は結構多いという。途中、大和三山の一つ天香具山をを遠望できる場所に止まって案内もしてくれた。タクシーをお城の壺阪口門の下で降り、ここから三の丸、二の丸、本丸へと登城を開始する。天候に問題はなかったが、高取城は標高583mの高取山の山頂にある。訪れたのは2月中旬で、麓ではそうでもなかったが、タクシーを降りると急に寒さを覚える。いつ降ったのかわからないが、残雪が所々に見え、霜柱も巨大なものがあちこちに立っている。用意した手袋は山用ではなく、日常使う薄手のものなので、これを使っていても指先が冷たい。ちょっとこの時期の山城をなめていたようだ。
 登り始めるとすぐに石垣を目にする。高取城は中世の山城の跡とは異なり、江戸時代も高取藩の居城として使用されていた城。石垣を多用した連郭式の山城で、周囲3km、城内の面積は1万uと広大な規模である。早朝ということもあり、他に訪問者はいない。少々寂しげな雰囲気でもあるが、それもまた山城には似つかわしい。(2017年2月19日)
 この地に最初に築城したのは南北朝時代の弘元2年(正慶元年、1332)南朝方であった越智邦澄とされる。越智氏の支配は長く続いたが、戦国時代後期になり織田信長が上洛し近畿一帯の覇権を握ると大和守護職を筒井順慶に与え、越智氏は筒井順慶の配下となる。同時に信長は筒井順慶が居城とする大和郡山城以外の城の破却を命じる。これにより高取城は廃城となる。しかし天正10年(1582)信長が本能寺の変で討たれると、筒井順慶は郡山城の支城として高取城を本格的な城郭に整備する。
 信長に次いで覇権を握った豊臣秀吉は筒井順慶を伊賀上野へ転封させ、郡山城には秀吉の弟、秀長を入城させる。秀長は高取城に重臣の脇坂安治を配したが、後に同じく重臣の本多利久を城主とする。本多利久は天正17年(1589)になって高取城の大改修を行い、三層の天守と小天守を建て、27の櫓(うち多聞櫓5棟)、33の門、土塀2900m、石垣3600m、堀切5か所を設けた大城郭に変貌させる。
 秀長が没し、養子であった秀保が跡を継ぐが、秀保も文禄4年(1595)に亡くなると、本多利久の子・俊政は秀吉の直臣となって1万5千石を拝領して高取城主となる。秀吉死後に俊政は徳川家康に与し、関ヶ原の戦では東軍に加わる。この功により1万石加増され、2万5千石の大名として高取藩の初代藩主となる。しかし本多俊政の跡を継いだ政武は寛永14年(1637)後継ぎがなく亡くなり本多家は廃絶となる。幕府は寛永17年(1640)に旗本であった植村家政を2万5千石の大名に取り立て高取藩の藩主にする。以後明治維新まで植村家が藩主を務めた。幕末の文久3年(1863)尊王攘夷派の浪士が天誅組を組織して大和国で蜂起。高取城は天誅組の襲撃を受けるが撃退している。

高取藩 歴代藩主
家紋 入封時期  禄高  入封時藩主   
慶長5年
(1600)
2万5千石 本多俊政(外様) 関ヶ原の戦で東軍に与し所領を安堵される 
植村割り桔梗 寛永17年
(1640)
2万5千石 植村家政(譜代) 旗本から大名に取り立てられる 

  ページトップへ 

 
Copyright(C) tenjikuroujin.jp All Rights Reserved.