日本の城ある記(関西の城・大坂城)

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 大坂城  (おおさかじょう)

訪問記
 神戸に用があり、その帰りに大坂城に行った。私が大坂城に行ったのは、今回で4度目である。最初に訪れたのは40年以上昔の学生時代。私が所属していたスポーツ関係のクラブは関西地区の連盟にに加盟しており、その連盟が主催する競技会が年に2回大坂城内で開催されていた。ただし今は大坂城内には競技会を開催できる施設がなくなっている。その競技会に3年生の時に2回、4年生になって1回参加した。とはいえ、競技会に参加しても大坂城を見学するのでもなく、競技が終われば直ちに引き上げていたので、大坂城の姿を外から見ても中に入ったことは無い。社会人になって、1年半ほど大阪近郊の高槻市に住んだことがあるが、その時も休日に出かけるのは京都・奈良で大坂城には足を踏み入れなかった。そしてまた、大坂には仕事で数え切れないほど訪れたが、何故か大坂城を見学しようとする気持ちにならなかった。地方都市への出張なら、必ずと言っていいほどその地の城跡見物を考えたのに大坂でその気持ちにならなかったのが不思議だ。まあ、大阪は大坂城以外に退屈しのぎできる場所が無数にあったというのが理由かもしれない。
 そんな昔はともかく、神戸の帰りに大坂城へ行くのは最初から決めていた。何年か前に大坂城が綺麗に修復されたとニュースで聞いていたし、わが郷土の英傑が天下を取った大坂城を死ぬ前に一度は見ておきたいと、そんな思いにもなっていた。
 江戸城は全てが一般に解放されていないせいか、本来の規模では江戸城の方が大坂城を上回っているのだろう。しかし、単なる見学者には大坂城が日本一の城に見える。残念ながら、郷土の名古屋城がみすぼらしく感じてしまうほどの荘厳さだ。運び込まれた巨大な石垣に圧倒させられる。人力だけでこのような工事ができたのかと、当時の技量に感心させられる。派手好みの秀吉の城らしい、豪華絢爛に輝く天守閣は、他の日本の天守閣とは趣が違いすぎるが、それも大坂という場所にはぴったりという気がする。日本中が家康好みの白壁の城ではつまらない。大坂城を見て、日本の城がますます好きになる。(2008年8月11日)
  
天正11年(1583)豊臣秀吉が石山本願寺の跡地に大城郭を建造したのはあまりにも有名な話。難攻不落のこの城も、徳川家康による大坂冬の陣、次いで元和元年(1615)の夏の陣で落城した。落城したのは家康の策略によるものとする見方があるが、やはり時代の勢いには逆らえなかったということではないか。
 豊臣家滅亡後、徳川幕府は一時的に松平(奥平)忠明を大坂城主としたが、元和5年(1619)、二代将軍秀忠は大坂城の直轄化と再建を決意し、翌年から大坂城の大修復を始めた。
 
 商業の地大阪における幕府の権威発揚の為に、加賀前田家などの北陸の大名衆と西国三一カ国、47大名衆に天下普請の大動員令を下した。豊臣秀吉が造った大坂城の上に大量の土砂を盛り、秀吉時代の痕跡を完全に消し去り、新たな石垣を組んだ。石垣の石材も全て花崗岩に統一され、高さと規模は他に類を見ないものとなった。
 寛永6年(1629)に大坂城は竣工し、天守閣は5重5、階地下1階の威容を誇った。この天守閣は寛文5年(1665)に落雷による火災で焼失。以後再建されることはなかった。
 鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れ、新政府軍が大坂城を接取したが、失火により城の大部分が焼失した。
 
 
現在の天守閣は昭和6年(1931)に市民の寄付150万円(現在の価値で600〜700億円といわれる)により再建された。5層のうち4層までが徳川時代の白漆喰壁の様式。5層目は秀吉時代の黒漆喰に金箔を押した様式によって建てられている。  
 
支配者の権威の象徴であるはずの城郭が、何故か大阪にあると庶民の城郭として親しみを持って受け入れてしまう。
 家康が造った高い石垣も、大阪商人の前には何の役にも立たないような気分になる。武士の館に武士の姿が浮かんでこない。商人の町大阪はやはり特異な町だ。大坂城と道頓堀を隔てるものがない。 


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