日本の城ある記(関西の城・三田陣屋) 

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 三田陣屋  (さんだじんや)

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 三田陣屋の敷地は現在三田小学校と有馬高等学校の用地となっている。三田小学校の校門前に「三田城跡」の碑が建っている。地元では三田陣屋と言わず三田城と呼んでいるのが普通のようだ。右に掲載した絵図は有馬高校の同窓会が作成されたもの。この絵図を見れば、「陣屋」というより「城」と表現した方がしっくりする。寛永10年(1633)に三田に入封した九鬼久隆は城主格でなかったが10代目藩主の隆国のとき城主格が与えられている。ただし幕府は正式には城ではなく陣屋の扱いだったようだ。とはいえ、九鬼氏の陣屋は車瀬(くるませ)城と呼ばれた城跡を改修したもので(車瀬城の所在地については異説もある)公式な呼称はともかくとして、内堀、外堀に囲まれた陣屋を「城」と呼んでもおかしくはないと思う。
 三田は摂津、播磨、丹波を結ぶ要衝の地で、有馬郡の中心として古くから栄えていた。最初は城下町としてではなく、当地で勢力のあった金心寺という寺院の門前町として発展したようだ。金心寺は8世紀頃の創建とされる。また有馬温泉は古代からその名が知られていた。
 有馬の重要性からこの地を巡って数々の争いがあり、支配者も幾度となく交代した。また三田城(車瀬城)の築城時期、築城場所、築城者については諸説あり、確定はしていないようだ。
 室町時代の初期は赤松氏が摂津国の守護職を務め、有馬郡を支配していたが、中期以降は細川氏が守護となり、赤松氏は細川氏配下の地頭(守護代)として有馬郡で勢力を持っていたようだ。明徳2年(1391)の明徳の乱(室町幕府と山名氏との争いで赤松氏は幕府軍として戦う)の後、赤松氏の一族で赤松義祐が有馬郡の地頭職(守護代)を受け継ぐ。義祐は有馬郡に移り住んだので有馬氏を名乗り、摂津有馬氏の祖とされる。その後、有馬国秀の代に織田信長によって摂津国の支配を任された荒木村重と対立し、天正3年(1575)に国秀の自害によって摂津有馬宗家は断絶する。
 天正10年(1582)近江から山崎片家が2万2千石で三田に入封するが、山崎氏は慶長5年(1600)関ヶ原の戦で西軍に与したため転封。代わって慶長6年(1601)に関ヶ原では東軍に与し戦功をあげた淡河城(おうごじょう)の城主であった有馬則頼が2万石を得て三田城の城主となる。有馬則頼は有馬義祐を祖とする摂津有馬家の一族で秀吉の中国攻めに従軍し戦功を立てて淡河に所領を得ていた。則頼の子・豊氏(とようじ)も父・則頼と共に関ヶ原の戦に従軍し戦功をあげ福知山6万石を拝領する。慶長7年則頼が死去すると有馬の所領2万石を豊氏が継承して8万石の大名となる。慶長19年(1614)の大坂夏の陣でも功績をあげ、元和6年(1620)に久留米に21万石を領して初代の久留米藩主となる。
 有馬氏の転封の後、寛永3年(1626)松平重直が出羽上山から3万石を領して三田に入封する。重直は寛永9年(1632)に豊後竜王に転封となる。
 寛永10年(1633)九鬼久隆が志摩鳥羽より3万6千石を領して入封する。九鬼久隆は紀伊、伊勢で勢力を誇った九鬼水軍の末裔。戦国時代は織田信長の水軍として活躍した。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦では久隆の祖父九鬼嘉隆が西軍、その子・守隆が東軍に与し、東軍の勝利により嘉隆は自害、守隆は鳥羽藩5万6千石を領した。寛永9年(1632)に守隆が亡くなると守隆の二男久隆と三男隆李(たかすえ)とが家督相続をめぐって争い、嘉永10年(1633)に幕府は久隆を3万6千石で三田へ転封。隆李を丹波綾部に2万石で入封させた。結果、鳥羽5万6千石が2藩に分割されることになった。
 三田陣屋(城)は武庫川の右岸に張り出した台地上に築かれ、南は自然の池を堀として利用。北と東西は崖地で守られている。主郭は南北に2カ所あり、堀により分断され、南を本丸、北を二の丸と称している。現在本丸は三田小学校が、二の丸は有馬高等学校の用地に利用されている。(2018年3月20日) 

歴代藩主
 家紋  入封時期  禄高  入封時の藩主  
慶長6年
(1601)
2万石 有馬則頼(外様)薩摩淡河より入封 慶長7年(1602)に則頼が死去。丹波福知山藩の藩主で則頼の子・有馬豊氏が引き継ぐ。
元和2年(1620)豊氏は久留米に転封。
寛永3年
(1626)
3万石 松平(能見)重直(譜代)出羽上山より入封 嘉永9年(1632)豊後竜王に転封
嘉永10年
(1633)
3万6千石 九鬼久隆(外様)志摩鳥羽より入封

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