日本の城ある記(関西の城・高槻城)

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 高槻城  (たかつきじょう) 

ある
 高槻城址を訪ねてJR高槻駅で下車する。ここで下車したのは城跡を訪ねることだけが目的ではなかった。高槻市には1年半ほど住んだことがある。大学を卒業して大阪に本社がある企業に就職した。会社の寮が高槻にあり、そこで初めての社会人生活が始まった。1年半しかいなかったのは転勤ではなく、中途退社したから。会社の先輩や同僚に大いに世話になりながら突然止めた理由は、特にない。気紛れの入社に気紛れの退社。実にいい加減な社会人のスタートだった。後ろめたい気持ちもあり、それ以来高槻には一歩も足を踏み入れていない。それから約50年が経った。当時のことは忘れようにも忘れられないが、ちょっと寄ってみたい気分になった。これも50年前とちっとも変わらないいい加減な気紛れ心がそうさせたのかもしれない。
 駅前の光景に戸惑う。昔を思い出す風景はどこにもない。50年も経てば、街の様相が変わるのは当たり前のことだが、それでも何か思い出に残っているものがあるだろうと探したが、全くなかった。寂しさなど感じない。かえって気分的には楽になった。なまじ心に残る街の姿が目の前にあれば、少しは暗い気分になったかもしれない。
 高槻城址は築城当時の面影を残していないことは事前に調べて理解していた。城址公園として整備された一角に昔を思い出させるための石垣が組まれている。堀に見立てた池もある。高槻城主であった高山右近の像もある。だが、これを見てもかつて壮大なお城がここに存在していたことを想像することは無理だ。
 高槻は京、大阪の中間地点にあり、東に淀川が流れ、西には丹波・山陰地方に通じる街道が通っている。軍事的にも経済的にも要衝の地である。
 
 高槻城は南北朝時代(1336〜1392)に足利尊氏側の武将として活躍した入江氏が居館が築いたのが始まりとされる。また高槻城が文献に登場するのは大永7年(1527)の桂川の戦で山崎城に詰めていた薬師寺国長が波多野稙通に攻撃されて高槻城に逃れたという記録が最初という。
 高槻には高槻城の他に芥川城と芥川山城という二つの城があった。芥川城は鎌倉幕府の御家人であった芥川氏が築いたとされるが、築城の時期、廃城の時期も定かでなく、また歴史的に城の存在が脚光を浴びたことはなかったようで、その遺構も残っておらず、芥川城があったと推測される高槻市殿町に石碑があるだけである。
 芥川山城は永承13年(1516)ころに室町幕府管領・細川高国が摂津の国人領主である能勢頼則に築城させたとされる。高槻市の北部にある標高約180mの三好山に築かれ、摂津では最も大きな山城の一つで、その遺構は現在でも良好な状態で残っているという(私はまだ訪れていない)。能勢氏は三代続けて城主を務めるが、大永6年(1526)細川高国と敵対した丹波の国人領主・波多野稙通の攻撃を受けて落城する。この混乱に乗じて、細川高国の同族であるが高国と敵対していた細川晴元は臣下の三好元長の支援を得て挙兵。大永7年(1527)晴元は高国を近江に追放する。
 天文16年(1547)幕府と京都の実権を握った三好元長の子・長慶が芥川山城を攻め、元長の従弟・芥川孫十郎を城主にする。しかし天文22年(1533)孫十郎に謀反の動きがあり、三好長慶は芥川城を攻撃して孫十郎を追放。以後は長慶自身が摂津における拠点として芥川山城の城主となる。このとき高槻城は芥川山城の支城の役割となったようだ。
 永禄3年(1560)長慶は嫡男の義興に芥川山城を譲り自身は河内飯盛山城に移る。永禄6年に(1563)義興が死去。永禄7年には長慶も死去する。従弟で三好三人衆の一人の三好長逸が芥川山城の城主となる。
 永禄11年(1568)織田信長が摂津に侵攻。芥川山城を攻め、三好長逸は阿波に敗走する。信長は摂津守護の和田惟政を芥川山城の城主とする。
 高槻城の入江氏は永禄12年(1569)の本圀寺の変でに三好三人衆と行動を共にするが、敗退して自害したとされる。このとき和田惟政はいち早く駆け付け、三好三人衆の撃退に貢献する。この功によって信長は高槻城も惟政に与える。惟政は高槻城を改修して近代城郭としての基礎を固め、芥川山城から居城を高槻城に移している。芥川山城は高山右近の父高山友照に預ける。
 元亀2年(1571)和田惟政は白井河原の戦で荒木村重に討ち取られる。高槻城は惟政の子惟長が継ぐが、元亀4年(1573)芥川山城の高山友照と右近の親子は高槻城を攻撃し惟長を追放。高槻城の城主となる。この時芥川山城は廃城となった。高山友照、右近は町屋を城内に取り込む堅固な城郭として整備した。同時に熱心なキリスト教徒であった高山親子はキリスト教の布教にも協力、天正4年(1576)に領内に教会を建てる。
 天正10年(1582)本能寺の変で信長が死去。天正13年(1585)関白となった豊臣秀吉は大規模な国替えを実施。高槻城の高山右近は播磨明石郡の船上城へ転封となる。高槻城は秀吉の直轄となり家臣が代官として赴任する。慶長5年(1600)関ヶ原の戦のあとは徳川家康の直轄となり、慶長19年(1614)の大坂冬の陣、慶長20年の大坂夏の陣の補給基地として活用される。元和元年(1615)に譜代大名の内藤信正が4万石を領して入封。以後譜代大名の赴任地となっている。
 高山右近が高槻城の城主であったのは父の時代を含めても12年。芥川山城の時代を含めても僅か16年である。そうであっても城址公園に右近の立派な像が建っているのは、高槻に残した功績が余ほど大きかったのか。
 高山友照・右近の親子は熱心なキリスト教徒であったが、武将としての功績も大きかった。いや、武功もあったがうまく立ち回ったとの評価もある。高山氏は摂津三島郡高山庄出身の国人領主である。右近の父友照は当時畿内で絶対的な権勢を揮った三好長慶に仕え、長慶の重臣松永久秀の配下となって大和宇陀郡の沢城を居城とした。永禄7年(1564)三好長慶が死去。三好家は内紛もあり急速に勢力が衰退する。永禄11年(1568)織田信長による摂津侵攻で、高槻城の入江氏を滅ぼし、新たに摂津守護となった和田惟政を城主にする。このとき高山友照・右近の親子は惟政の配下となり芥川山城の城主となる。元亀2年(1571)和田惟政は荒木村重に白井河原の戦で敗れ、高槻城は惟政の子・惟長が城主となる。元亀4年(1573)惟長が高山親子を謀殺しようとしているとの噂があり、それを理由に高山友照、右近の親子は惟長を追放する。高山親子は荒木村重の配下となり高槻城の城主となる。天正6年(1578)荒木村重が信長と対立。このとき右近は信長と村重の仲介を試みたが失敗。信長は高槻城を攻めて右近に降伏を勧告、結果的に右近は信長に城を明け渡す。これを切っ掛けに村重側の武将の多くも離反して信長の勝利につながった。このことで信長は右近に引き続き高槻城を任せ、所領も2万石から4万石に加増する。天正10年(1582)信長が本能寺で討たれると、羽柴秀吉の軍に加わり、山崎の合戦では先鋒を務める。その後も秀吉の配下として小牧長久手の戦、四国征伐などに参陣している。天正13年(1585)秀吉による国替えで播磨明石に6万石を領して転封する。しかし秀吉は天正15年(1587)バテレン追放令を出す。右近は信仰を守ることを選び領地を返上する。
 右近は誠実で約束は守り、決して裏切ったりはしないと評価されていたようで、秀吉配下の武将にも右近を人徳の人として人柄に感銘し、丁重に扱う者も多くいたという。領地返上後、しばらくは小西行長の庇護を受け、天正16年(1588)に前田利家は金沢に右近を招き、1万5千石の扶持を与えた。金沢城の修復には右近の築城技法が役立ったという。関ヶ原の戦で勝利した家康は慶長19年(1614)キリシタン国外追放の令を出す。これを受け右近は自らマニラへ向う追放船に乗り込む。マニラ到着の僅か40日後に病のため死去する。戦国武将として生き、キリスト教徒として生きた右近の生き様は、無宗教で凡人の私にはとても真似できそうにない。(2018年3月20日)

歴代藩主
 家紋  入封時期  禄高  入封時の藩主  
元和1年
(1615)
4万石 内藤信正(譜代)近江長浜より入封
元和3年
(1617)
2万石 土岐定義(譜代)下野守谷より入封 このとき幕府は奉行を派遣して城を改修する
丸に「利」の字 元和5年
(1619)
2万石 松平(形原)家信(譜代)三河形原より入封
寛永13年
(1636)
5万石 岡部宣勝(譜代)播磨龍野より入封 このとき出丸を増築する。
丸に「利」の字 寛永17年
(1640)
3万6千石 松平(形原)康信(譜代)下総佐倉より入封
慶安2年
(1649)
3万6千石 永井直清(譜代)山崎長岡より入封

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