日本の城ある記(関西の城・飯盛城) 

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  飯盛城 (いいもりじょう)

 
ある
 飯盛城は大東市と四條畷市の境目にある。一般的な登城路は大東市側のようだが、四条畷側から登る。JR四條畷駅で下車して四条畷学園を通り過ぎ四条畷神社まで真直ぐに伸びる坂道を歩く。登城路は神社境内の右手にある。案内標識に従って歩き出す。

 延々と続く山道だが整備は行き届いており、ゆっくりでも休まず登ればやがては北郭に着く。北郭から御体塚郭の間には鋭角に切られた堀切跡が見られ、また石垣が何カ所か散見される。御体塚郭は飯盛城を本拠として畿内に勢力を拡大した三好長慶の遺体を仮埋葬した場所。長慶の遺体は三年の間ここに隠されていたという。
 御体塚郭から本丸の最高所・高櫓郭までは三本松郭、蔵屋敷郭が連なる。御体塚郭と三本松郭は土橋によって結ばれ竪堀も見られる。また郭の側面には良好な状態で残っている石垣を見ることができる。石垣の高さはそれほどでもないが、当時としては先進的技法であったと思われる。
 展望台郭はその名の通り大東市の市街、さらにその先の大阪市街の高層ビル群までは眺望できるビューポイント。条件が良ければ明石大橋まで見通せるらしい。
 本丸の最高所には櫓が設けられていたのか、高櫓郭と呼ばれている。ここには楠木正行公の像がある。正行は楠木正成の嫡男で南北朝時代の正平3年(1348)四條畷の戦で
北朝側の高師直の軍に敗れ戦死する。飯盛城との関りはよくわからないが、ここに像が建てられたのは戦の主戦場がこの付近であったということからなのだろう。
 高櫓郭から千畳敷郭までは竪堀が何カ所か掘られ、土橋も架けられている。千畳敷郭には放送局の送信アンテナがあり、ちょっと残念だが致し方ない。千畳敷と呼ばれているだけにこれまで見た郭と比べて一番広い面積の郭である。南端には虎口が設けられ防御を固めている。
 飯盛城は河内と大和を分ける生駒山地の北西支脈に位置する標高314mの飯盛山に築かれた山城。南北朝時代の正平3年(1348)四條畷の戦で南朝側の武将が陣を張ったという記録があるようだが、城郭を築いていたとは思われない。通説では享緑4年(1531)頃に河内守護である畠山義堯が家臣で河内守護代の木沢長政に命じて飯盛山に城を築かせたのが最初とされる。城を築いた長政は主君の畠山義堯から守護職を奪い取ることを企て、これに激怒した義堯は三好元長の援軍を得て享緑5年(1532)に木沢長政の飯盛城を包囲する。これに対して木沢長政に肩入れする細川晴元は本願寺に一向一揆の蜂起を要請。これに応じた門徒は3万もの勢力であったという。一揆軍は飯盛城を囲む畠山・三好連合軍を背後から攻撃して畠山義堯 、三好元長を討ち取る。その木沢長政も天文11年(1542)室町幕府の長政討伐の命に呼応した三好元長の嫡男・長慶らの軍勢に討たれる。この時、飯盛城には畠山在氏が在城していた。畠山在氏は畠山総州家の6代目の当主であったが、その実権は木沢長政が握っていた。畠山在氏は長政に連座する形で幕府軍に攻撃され、天文12年(1543)飯山城は陥落する。
 この後に飯盛城主となったのは河内国守護職にあった畠山高政氏の家臣・安見宗房。宗房は主君の高政を追放するまでに力をつけるが、永禄2年(1559)高政は三好長慶の支援を受けて安見宗房をを追放する。しかし高政は長慶の勢力が増大することを恐れて、追放した宗房と和睦し再び飯盛城の城主に据える。これに憤慨した長慶は高政の居城である高屋城を攻撃、援軍で駆け付けた宗房の軍も撃退して高政、宗房は堺へ敗走する。永禄3年(1560)長慶は飯盛城に入城し、ここを居城と定めて城郭の拡張整備を行う。これにより飯盛城は南北約1200m、東西約500mの城域に大小70余の郭を築いた当時有数の規模を誇る山城となった。
 三好長慶は飯盛城の他、芥川山城、高屋城を拠点として畿内で勢力を伸張させるが、永禄6年(1563)に嫡男の義興を亡くし、翌年には弟の安宅冬康も亡くしている。長慶自身も永禄7年(1564)飯森城入城4年目で病死する。長慶の遺体は飯盛城の御体塚郭に3年の間仮埋葬されていたという。長慶亡き後、飯盛城は長慶の甥の三好義継および三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)によって管理されるが天正2年(1574)織田信長の軍勢に攻撃され落城する。天正4年(1576)頃には廃城となったようだ。(2018年12月13日)

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