訪問記
岸和田といえばだんじり祭り。それ以外に思いつくことがないほどに全国的に有名なお祭りである。祭りは毎年9月に行われるが、私が岸和田を訪れたのは3月の下旬。岸和田城内では桜祭りの準備がされていたが、まだ桜の花はちらほらの状態。観光には中途半端な時期。もっとも私の目的は岸和田城を訪ねることにあるので、ごった返すような人の賑わいは避けている。岸和田城へは南海電鉄の蛸地蔵駅から歩いて15分ほど。「蛸地蔵」と奇妙な名前の駅であるが、これも岸和田城と関係があるという。岸和田に伝わる昔話として蛸地蔵の話が岸和田市のホームページに載っている。
岸和田城の歴史は建武元年(1334)楠木正成が甥の和田高家に「岸」と呼ばれた地(現在の岸和田城から500mほど離れた場所)に城を築かせたのが始まりとされる。「岸」と「和田」が重なりこの地が「岸和田」と呼ばれるようになったといわれている。しかしこれには異説があるようで、それによれば岸和田城の築城は15世紀以降に細川家が和泉国の守護となってからのことだという。
ともあれ戦国時代は和泉国守護細川家、守護代松浦家、戦国大名三好家、畠山家などの勢力が権力闘争を続ける場となっている。天正5年(1577)になって織田信長の紀州征伐があり、岸和田城は信長の配下となる。信長亡き後は豊臣秀吉の配下となり、天正13年(1585)秀吉は紀州の根来衆、雑賀衆、和田党を討伐するため岸和田城に入城する。この戦のあと秀吉は小出秀政(秀頼の傳役)を岸和田城の城主に据える。小出氏は文禄4年(1595)に五層の天守の建造に着手し慶長2年(1597)に竣工した。関ヶ原の戦で小出氏は家康の東軍に与したために所領を安堵されるが、元和5年(1619)徳川譜代大名の松平康重が5万石で入封。元和9年(1623)に伏見城が破却されると、その門と櫓を移築して城を改修。寛永17年(1640)に岡部宣勝が6万石で入封すると外郭を造営して城を強化している。これらの城の改修は身内であるが謀反の疑いもあった徳川御三家の紀州藩への備えとされるが、これも噂の範囲との説もある。しかし五重の天守を備えた変形五角形の本丸の5隅に櫓を設けて、それらを多門櫓で連結し、二の丸には御殿が建てられ、幅の広い内堀、外堀が4重に掘られている城構えは、そんな噂を真実とするに足りる規模でもある。(2016年3月25日) |