日本の城ある記(関西の城・洲本城) 

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 洲本城 (すもとじょう) 

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 洲本バスターミナルから洲本城を目指す。洲本城は三熊山山上の「上の城」と麓の御殿「下の城」からなる。上の城と下の城は東西の斜面に築かれた長大な竪石垣(登り石垣)によって一体化し、強固な防御策を講じた城郭である。
 バスターミナルから下の城まで徒歩で20分くらい。下の城は堀と石垣が残っているが、敷地は裁判所などの公共用地となっているようだ。山上の天守台に築かれた模擬天守をバックに堀と石垣を写真に収めて立ち去る。
 「お登勢の像」の角を曲がり大阪湾に面した大浜公園に沿って歩くと三熊山の登山口に出る。ここからは登り坂になるが大した勾配でもない。ここを登り詰めれば本丸直下に出る。 
 八王子神社への分岐を過ぎて少し進むと「西登り石垣」の標識。山上まで石垣が続いているようだが、登り石垣へのルートは整備されていおらず、また石垣そのものも崩落が激しいようだ。立ち入って観察することは難しい。それでも、登り石垣を遠くから眺めただけでも洲本城の強固な守りの一端が窺われる。
 登山道を登り詰めると穴太積みで築かれた本丸石垣の直下に出る。本丸には南側の大手口と西側の搦手口の二カ所に虎口が設けられている。何時もなら大手口から入るのだが、登り切ったところが本丸の西側で、そのまま搦手口から入る。実のところは山城にしては立派な階段、虎口であったのでこれが大手口かと勘違いしていた。
 本丸北側、大阪湾に面した位置に大天守、小天守用の天守台がある。洲本城に天守は築かれることがなかったが、現在は観光用の模擬天守が建てられている。この天守は昭和3年(1928)に建てられた昭和建造の模擬天守第1号だそうだが老朽化して内部には入ることができないようだ。
 大手口から本丸を出て、東側に廻って本丸の高石垣を眺める。大手口の門構えや大階段も含めて山城とは思えないスケールに驚嘆する。以前見た大和の高取城の城壁と比べてそん色なく、いやそれ以上の規模にも見える。
 現在残る洲本城の遺構の大部分は天正13年(1585)に3万石を領して洲本城の城主となった脇坂安治によるものとされる。脇坂氏は関ヶ原の戦で東軍に与して所領を安堵され、慶長14年(1609)に伊予大洲へ5万3千石を領して転封するまでの24年間に洲本城を石の城に造り替えたようだ。それにしても3万石の大名としては洲本城の規模は大きすぎるように感じる。洲本城の大改修は大坂の豊臣側に備えるための家康の意向に沿ったものであったのか。それとも、大阪側が脇坂氏と内通して家康との決戦に備えたものだったのか。後者であることは、まずあり得ないか。
   
 本丸から南の丸の高石垣の下を通って馬屋曲輪、日月の井戸(池)へ。南の丸南東隅には櫓台がある。高石垣の優雅な反りが櫓台を支えている。
 馬屋曲輪は城郭の南端部にあり、ここから紀淡海峡、友ケ島、遙かに紀伊半島和歌山市辺りを望むことができる。洲本城は大永6年(1526)に淡路水軍の頭領であった安宅氏によって築かれたとされる。紀淡海峡、大阪湾を眼下に眺められるこの地は水軍にとって絶好の場所であろう。
 本丸、南の丸、東の丸の下段に日月の井戸(池)がある。籠城に備えた井戸と貯水池である。渇水期でも水が涸れることがないと言われているようだ。水の存在は籠城兵の士気を持続させる効果があったに違いない。庭園風景の趣もあり、平時には心を慰めたのだろう。
   
 東の丸から東二の門を抜けると平坦で広い曲輪に出る。案内標識には「武者溜」と書かれている。戦時は兵士の駐屯地となったのだろう。曲輪の東端近くに東一の門がある。虎口から続く石段は急斜面を下っている。少し下りてみたが、再び登り返すことの労力を考えて途中でやめる。「武者溜」曲輪も周囲に石垣が組まれている。 
   
 武者溜から戻って「南の丸」へ。 南の丸は文字通り本丸の南、一段低くなったところにある。本丸大手口に侵入する敵を迎え撃つ重要な曲輪である。隅には櫓台が設けられている。南の丸から西方には尾根道で繋がった「西の丸」がある。西の丸は三熊山の三つの峰の一つ高熊山の山上に築かれている。山城でよく見かける尾根を断ち切った堀切によって分断はされていないが、東の丸、南の丸とは違って独立した曲輪で、出丸のようである。西の丸は武者溜に次いで広い面積を持つ。南方面から侵入する敵に対応するため南面からに西面にかけて傾斜の急な石垣が築かれている。
 慶長14年(1609)脇坂氏の転封の後、淡路は藤堂氏の属領となり家臣が城代となる。慶長15年(1610)には姫路藩の池田輝政が淡路一国を加増され姫路藩の属領となる。慶長18年(1613)池田輝政が死去すると三男忠雄に淡路で6万石が分与される。忠雄は由良に城を築いて居城としたため洲本城は廃城となる。もっとも忠雄は9歳であったので淡路には住まず姫路城にとどまっていた。由良城には家臣が 赴き政務にあたったようだ。そうならわざわざ新しく城を築く必要がなかったと思われるが、洲本城を捨てて由良に城を築いた理由が外にあったのだろうか。淡路で6万石を分与されたが、その分与の中に洲本城が外されていたのだろうか。元和元年(1615)忠雄は兄で岡山藩藩主の忠継が急逝したため、その跡を継ぐことになり、淡路6万石は再び姫路藩の属領となる。
 元和元年(1615)大坂夏の陣後、その戦の戦功として淡路一国が徳島藩の蜂須賀氏に加増ざれ、筆頭家老の稲田氏が城代を務める。稲田氏は大坂の陣での戦功で家康から感状を贈られており、城代に任じられたのは幕府の内命があったからとされる。当初は由良を政庁としたが、寛永7年(1630)に洲本城の麓(下の城)に政庁を移転する。稲田家当主は代々稲田九郎兵衛を名乗り幕末まで城代を世襲する。淡路城代は幕府内でも大名に次ぐ格式があったようだ。
 稲田氏の祖・稲田植元と主家の蜂須賀氏の祖・蜂須賀正勝(小六)は義兄弟の約束を結び豊臣家臣として活躍した間柄であった。その関係から稲田氏は城代となるとともに大名並みの1万1500石の知行地を得ている。常に財政難であった徳島藩内において稲田家は豊かな経済力を独自に確保していたようだ。幕末、公武合体派であった本家に対して稲田氏および家臣は尊王攘夷派として活動する。こうした因縁から維新後の明治3年(1870)蜂須賀氏家臣(徳島藩藩士)と稲田氏家臣との間で争いが起こる。直接の原因は明治政府による武士の身分を士族と卒族に分けて支給する録を決めたことにある。徳島藩藩士は士族とされたが、稲田氏の家臣は陪臣であり卒族とされた。卒族とされると支給される禄高も僅かであり、且つ稲田氏との主従関係も断たれることから稲田家の分離独立運動が起こる。これに反発した徳島藩藩士がこれまでの因縁も重なって稲田氏の邸宅や家臣を襲う。稲田氏側に多数の死傷者および多くの建物が焼失したという。明治政府はこの騒動(庚午(こうご)事変または稲田騒動)に対して徳島藩藩士の首謀者複数名を死罪とし、多くの徳島藩士を罰した。稲田氏側には稲田家当主の外、稲田家家臣全員に北海道日高郡静内への移住開拓が命じられる。
 洲本城南の丸から西の丸に続く尾根道の途中に「残念石」と書かれた標識の奥に1m四方ほどの石が埋まっている。どうしてこの名前が付けられているのか、その謂れは分からないが、ここから洲本城本丸天守台を望むことができる。築城後400年の風雨に耐えた古城は何を思い、何を偲んでいるのだろうか。(2020年1月16日)

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