日本の城ある記(関西の城・明石城)

 関西の城 トップページへ 日本の城ある記 トップページへ 
 明石城  (あかしじょう)

訪問記
 明石まで大阪駅からJR快速で1時間で到着する。プラットホームに立つと明石城の二つの櫓が目に入る。これまで城跡見物に各地を訪れたが、駅のホームから城郭が眺められたのは初めてのこと。写真を撮ろうと立ち止まるが、生憎朝の通勤時間帯。急ぎ足で改札へ向かう乗客の迷惑顔に、気の弱い私は取り出したデジカメをポケットにしまう。
 城跡は公園としてよく整備されている。二つの櫓が丁度良く収まる場所を探すがこれが結構難しい。超広角レンズを備えた高級カメラなら可能だろうが、私のは手のひらサイズのポケットカメラ。なんとか同じ画面に写し込むが小さくなって迫力がない。一つ一つ櫓を写せば、それなりの出来栄えにはなるが明石城の特徴が出ない。もう少し接近して櫓を建ててくれればと無茶な不満が口に出る。
 天守台に立つと、明石の市街の向う遥かに明石大橋の橋げたが見える。西国大名の抑えとしての役割を担った城らしく瀬戸内海を見下ろす交通の要害に建てられている。ここには五層の天守閣が築かれる予定であったそうだが、築城以来一度も築かれなかった。明石城が完成した時期はすでに徳川幕府の基盤は安定していたのだろう。
 天守台に立って当時の時代背景を想像してみるが、残念ながら今から大阪まで戻らなければならず、ここで時間をつぶす余裕がない。結構広い城内であるが、急ぎ足で駆け抜けて先ほど降り立った明石駅に向かう。(2011年6月8日)
 
 元和3年(1617)小笠原忠真は10万石を拝領して信濃松本から入封。当初は船上城を居城とした。しかし元和4年(1618)2代将軍徳川秀忠より、西国大名の抑えの城として新たな城郭の建築を命じられ、翌元和5年に年船上城の北東約1kmの丘陵地に築城を開始。同時に一国一城の令に倣って領内の船上城、三木城、高砂城、枝吉城の取り壊しも行い、それら取り壊しの城の資材を明石城の築城に用いた。これにより同年中に明石城は一応の完成を見た。
 明石城は海を見下ろす丘陵の端に築かれた平山城。東西に続く尾根筋を総石垣で築いて中心部とし、西から稲荷曲輪、本丸、二の丸、東の丸と四つの曲輪を並べた連郭式の縄張り。さらに南側には外堀で囲まれた三の丸も設け、防護が薄い東側には帯曲輪と薬研堀、箱堀を備え、北側丘陵地には堀に囲まれた北の丸を配置している。
 本丸西南側には五層の天守の建築を想定して天守台も築かれたが、築城以来一度も天守は立てられなかった。しかし三重櫓を本丸に四基配置。東の丸、二の丸など二重櫓を6基配置。平櫓は10基。門は27カ所に配置する壮大な規模となっている。 
 城を建設した小笠原忠真は寛永9年(1632)に小倉に転封、以後度々藩主の交代があったが、天和2年(1682)松平直明が越前大野より6万石で入封してからは松平家が明治まで藩主を務めた。現在城跡は明石公園として整備開放されている。本丸巽櫓、坤櫓は現存し国の重要文化財に指定されている。また本丸、二の丸、三の丸の石垣、三の丸の土塁、中堀が当時の姿のまま現存している。   

明石藩 歴代藩主
 家紋  入封時期  禄高  入封時の藩主  
元和3
(1617)
10万石 小笠原忠真(譜代)信州松本より入封 
寛永9
(1632)
7万石 松平(戸田)康直(譜代)信濃松本より入封  
寛永16
(1639)
7万石 大久保忠職(譜代)美濃加納より入封    
慶安2
(1649) 
7万石 松平(藤井)忠国(譜代)丹波篠山より入封    
延宝7
(1679)
6万石 本多政利(譜代)大和より入封   
 天和2
(1682)
6万石 松平直明(家門)越前大野より入封    

  ページトップへ 

 
Copyright(C) tenjikuroujin.jp All Rights Reserved.