日本の城ある記(関西の城・姫路城)

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 姫路城  (ひめじじょう)

訪問記
 姫路は何度か訪れた町だが姫路城を訪ねたことはない。観光で訪れたことはなく、仕事が終わればすぐに新幹線に乗り込むのが常だった。何時かは行こうと思っていたが、今日の今まで姫路駅の駅前からその雄姿を眺めただけだった。今回も姫路城を訪ねる予定ではなかった。雨のため予定していたお寺の見学をあきらめ、早めに姫路駅に着いたので急ぎ訪問することとした。急ぎといっても時間は2時間以上ある。姫路も雨は降っていたが、観光できない程ではない。時折りではあるが雨が止むこともある。
 姫路城は平成23年4月から大天守の保存修理工事が本格的に行われ、全体が工事用の枠で覆われていたが、今はその枠も取り外され外観は何処からでも見ることができるようになった。しかし平成27年3月までは天守内部への立ち入りはできない。見学できる場所は限られているが、保存修理が完了した天守を真近かで見る事は出来る。
 伝えられるとことによると、新たに塗られた大天守の漆喰が白過ぎると話題になっているようだ。一部には違和感を感じる人もいるようだ。保存修理前の姫路城を真近で見たことはない私自身は比較のしようがないが、確かに工事の行われていない西小天守と比べれば白さが目立つ。それでも違和感を覚えるほどのものではない。もっとも雨模様の天気のせいで白さが際立たないのかもしれない。青空の下で太陽の光をまともに浴びれば、白い輝きが増すのかもしれない。しかし、それはそれで見てみたい気もする。古くから”白鷺城(はくろじょう・しらさぎじょう)”と呼称された城である。これが本来の色といわれればその通りかもしれない。

 
小雨模様で、しかも天守に入ることはできないという条件下でも観光客は多い。日本人ばかりでなく外国人の姿も目立つ。さすが、世界遺産に登録されている城郭だけのことはある。天守を真近に見て、そこに入れないもどかしさを覚える。来年の3月以降に再度訪れようと、そんな気持ちにさせる。(2014年10月22日)
 姫路城は標高46mの姫山を中心とした平山城。この地に最初に築城したのは南朝正平元年・北朝貞和2年(1346)播磨国守護の赤松則村の次男・貞範とするのが定説のようだ。それより前の元弘3年(1333)の元弘の乱で護良親王の令旨を受けた赤松則村が挙兵し、上洛する途上の姫山にあった称名寺を基にして城柵をめぐらした記録がある。
 中世城郭としての城の体裁を整えたのは播磨御着城主の小寺政職の家臣である黒田重隆、職隆であったとされる。黒田親子は御着城の支城として天文24年(1555)から永禄4年(1561)にかけて城を拡張する。永禄10年(1567)黒田職隆の子・孝高(官兵衛)が城代となる。
 黒田孝高は武略に優れ、永禄12年(1569)赤松政秀の3千の兵に攻められるが、わずか300の兵で撃退している。天正3年(1575)には織田信長の才能を高く評価し、主君の小寺政職に信長への臣従を進言し、自らは秀吉の仲介により岐阜城で信長に謁見している。
 天正5年(1577)秀吉は中国攻めの信長の命を受けて播磨に進駐する。黒田孝高は二の丸に居を移し、秀吉に姫路城を譲る。秀吉の参謀としての黒田孝高(官兵衛)の活躍が始まる。播磨平定後の天正8年(1580)には孝高は姫路城の南西に位置する国府山城に移り、秀吉に姫路城を献上する。秀吉は石垣で城郭を囲い、3層の天守を建て近世城郭に大改修する。また城の名をこの時に姫路城と正式に改める。また城下町を形成して播磨国の中心地となるよう整備する。
 天正10年(1582)明智光秀を山崎の戦いで討ちとった秀吉は天正11年に大阪城に移る。姫路城には弟の豊臣秀長が入城するが、秀長は大和郡山に転封となり、代わりに木下家定が入城する。
 関ヶ原の後、池田輝政がその功により三河吉田15万石から播磨52万石の大大名として入城。輝政は慶長6年(1601)から8年の歳月をかけて城の大改修を行う。現存する大天守群はこの時に建てられた。元和3年(1617)本多忠政が15万石で入封。このとき嫡男忠刻に輿入れする徳川秀忠の娘千姫の10万石の化粧料で三の丸と西の丸が増築される。これにより現在に残る城郭がほぼ完成する。以後姫路城は西国大名の押さえの城として親藩、譜代の大名が務めている。なお、姫路城の規模は15万石の大名の規模としては大き過ぎ、その維持に藩経済は逼迫していたという。

姫路藩 歴代藩主
家紋 入封時期  禄高  入封時藩主   
慶長5年
(1600)
52万石 池田輝政(外様)三河吉田より入封 慶長6年(1601)城を大改修。現在見られる天守群を完成させた。 
元和3年
(1617)
15万石 本多忠政(譜代)伊勢桑名より入封  
寛永16年
(1639)
18万石 松平(奥平)忠明(譜代)大和郡山より入封  
慶安元年
(1648)
15万石 松平直基(家門)出羽山形より入封  
慶安2年
(1649)
15万石 榊原忠次(譜代)陸奥白河より入封  
寛文7年
(1667)
15万石 松平直矩(家門)越後村上より入封  
 天和2年
(1682)
 15万石 本多忠国(譜代)陸奥福島より入封   
 宝永元年
(1704)
 15万石 榊原政邦(譜代)越後村上より入封   
 寛保元年
(1741)
 15万石 松平明矩(家門)陸奥白河より入封   
 寛延2年
(1749)
 15万石 酒井忠恭(譜代)上野前橋より入封   



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