日本の城ある記(関西の城・龍野城)

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 龍野城  (たつのじょう)

訪問記
 日本中を旅したつもりではいたが、まだまだ知らない土地は多い。たつの市はこれまで通過したこともない場所だ。しかも市名が「龍野」から「たつの」に変更になっていることも訪れるまで知らなかった。平成17年(2005)の市町村合併を機に市名を変更したようだ。しかし合併後もJR新姫線の駅名は「本竜野」であり、地図上の町の名も「龍野」となっている。この地に江戸時代5万石の城跡が存在するとのことで訪れたが事前の知識はそれほどない。訪れて、駅前に童謡の「赤とんぼ」のモニュメントがあり、その作詞者・三木露風の生れた場所であることを知る。また薄口醤油のヒガシマル。素麺のブランド「揖保の糸」の生産地であること、また合併後に瀬戸内海に面する地域も新市域となったことなど、結構話題のある町である。龍野城の存在する地域はもともとこの地の中心地で城下町の趣のある古い町並みもある。市域全部を見たわけではないが、江戸から明治、大正、昭和と時代の繋がりを感じさせる町のようだ。
 龍野城は本竜野駅から西に向かい揖保川を渡った鶏籠山の麓にある。駅から徒歩で20分くらいの距離である。城の門構えは5万石の規模の城にしては貧弱だ。1、2万石の大名の陣屋のような造りに見える。この門は昭和54年(1979)に模擬復元されたものだが、江戸時代と規模はさして違わないようだ。
 ここに初めて城を築いたのは明応8年(1499)に赤松村秀であったという。赤松村秀は播磨守護職となった赤松政則の一族。鶏籠山の山頂に築城した。その後信長の命を受けた秀吉の中国侵攻で天正5年(1577)秀吉の軍門に下り、天正9年(1581)には秀吉配下の蜂須賀正勝が城主として入城した。以後、豊臣政権下で福島正則、木下勝俊、小出吉政が城主を務めた。この間に龍野城は石垣を持つ近世城郭として修築された。関ヶ原の戦後にこの地は池田輝政の領地となるが、元和3年(1617)池田家の改易により譜代大名の本多政朝が5万石で入封する。小笠原氏、岡部氏、京極氏と続き、万治元年(1658)に京極氏が讃岐丸亀に転封すると城は破却される。
 寛文12年(1672)脇坂安政が入封する。脇坂氏は鶏籠山の山上の城は放棄し、新たに麓に城を築いた。石垣と堀で囲まれた曲輪を造成し2重櫓、多門櫓、城門、御殿を整備するが、規模は今あるような5万石の大名としては質素なものだった。脇坂家は以後幕末まで藩主となるが、外様大名ながら老中、京都所司代など幕府の要職を務めている。これは春日局の縁者である堀田家から養子を迎え譜代大名に準じる扱いを受けていたためという。(2014年10月22日)


龍野藩 歴代藩主
家紋 入封時期  禄高  入封時藩主   
元和3年
(1617)
5万石 本多政朝(譜代)上総大多喜より入封  
寛永3年
(1626)
6万石 小笠原長次(譜代)入封  
寛永10年
(1633)
5万石 岡部宣勝(譜代)美濃大垣より入封  
寛永14年
(1637)
6万石 京極高知(外様)出雲松江より入封 万治元年(1658)京極氏は讃岐丸亀に転封となり城を破却、一時廃藩となる。 
寛文12年
(1672)
5万3千石 脇坂安政(外様)信濃飯田より入封 鶏籠山の麓に城を再築する。 

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