訪問記
赤穂城の歴史を知らなくとも、元禄14年に起きた赤穂浪士による吉良邸討ち入りの事件は知っている。大半の方はそうだろう。かく言う私もしかり。仇討ち、敵討ちの物語は長く日本人の心をとらえてきた。とりわけ赤穂浪士の仇討は日本三大仇討の一つとして講談でも歌舞伎でも常に人気を集める演目になっている。多くの読み物も出版されている。現在においても、年末になれば必ずどこかのTV局で放送される。
武士の仇討ち、敵討ちは”恨み”によるものではない。それは武士の本懐であり体面であり生き様だという。江戸時代の武士のしきたりや生活態度、習慣を理解できないでアレコレ言うのもおこがましいが、現代人からすれば、いや、少なくとも私にはこれには多少の違和感を覚える。義のために命をささげることは理解できるが、主君の仇を討つことがそれほどの”義”なのか。国や集団に対する忠誠心は認めるが、個人に対する絶対的な忠誠は、封建時代ということを加味しても素直に受け入れられない。むしろ武士道など持ちださず個人的感情の”恨みを晴らす”と単純に割り切った方がすっきりする。武士道の教えでは主君は国であり主君が武士の生きざまのすべてを左右するというのだろうか。大石内蔵助は国を守るため、ひいては家臣の生活を守るために”お家の再興”を願い、それが叶わなかったことから討ち入りしたというが、それはただ単に死に場所を求めただけの行為ではないのか。これが武士の体面を守ることであり、ひいては武士道精神を具現化したということなのだろうか。そうなら戦国時代の下克上の世の中の方がよほど大らかで自由な空気を感じる。主君を自ら選び、その主君のための忠義ではない。いわば生まれながらの主君への忠義を半ば強要されることが果たして武士道の真髄なのか。赤穂城の敷地内に大石神社がある。その参道には義士の等身大の像が立ち並んでいる。ちょっと異様な光景に見える。歌舞伎や映画やテレビのドラマで演じられる義士の物語が脚色されたものでなく真実だとしても、これほどまでに武士の鑑だと祀り上げるのは異常に感じる。私には武士道をはき違えているのではないかとさえ思う。(2014年10月22日) |