日本の城ある記(関西の城・播磨 置塩城) 

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 置塩城  (おきしおじょう)

 姫路駅から神姫バスに乗って「宮置」バス停で下車。ここから置塩城の登城口まで徒歩で約20分。置塩城は姫路市夢前町にある標高370mの城山(置塩山)山頂部にある山城。
 因みに「夢前町(ゆめさきちょう)」は平成18年(2006)に姫路市と合併するまで「夢」の字が付いた唯一自治体であったという。置塩城の麓を流れる川も「夢前川」となっているが、夢前町は昭和30年(1955)に成立した町なので、置塩城築城時の町や川の名は違っていたかもしれない。
 登城路を歩き始めて直ぐに害獣除けのゲートがある。この頃は山城巡りをするとこの設備を目にする機会が増えてきた。猿や鹿程度ならいいが、猪や熊にだけは出会いたくない。40年以上前、一人で山登りをしていた時に熊に出会ったことがあるが、怖くてその場に立ちすくむことしかできなかった。幸い熊の方がよけてくれたが、あんなことは二度と経験したくない。今は山城歩きでもクマ避け用にホイッスルを持って出掛けるが、まだ使ったことはない。
 
 登城路に〇〇丁と刻まれた石標が見られる。登山路でよく見かける一合目、二合目と同じ種類のものかと思ったが十八丁目まであった。しかも十八丁目は本丸ではない。二の丸からの南に伸びた尾根上に十八丁の標識があり、「伝茶室跡」の標識のある曲輪に出る。この茶室は訪問者の接待に使ったものなのだろうか。場所から推定すれば番小屋か見張小屋のような気もする。伝茶室跡の曲輪の下部にも「南曲輪群」の標識があり曲輪が3段ほど連続して築かれている。それぞれの曲輪は5m程の段差で繋がっている。
 南曲輪群から二の丸曲輪群下の通路を通って本丸へ向かう。二の丸と本丸は尾根続きのそれぞれ別の峰のピークに築かれているが、本丸はこの城域の最も高い位置にある。また本丸土手には石垣で補強された部分も見られる。本丸から南に伸びる尾根上にも曲輪が築かれていた。本丸の虎口と思われるところに石組が見られるが、虎口がどんな形態なのかわよく分からない。石組も虎口も後世に手直・修理しされたものかもしれない。発掘調査では本丸跡から建物の礎石、瓦が見つかっており、ここに瓦葺の建物(天守?)があったことが想定される。
 本丸は最高所に位置するだけあって、ここからな眺めは絶景である。城下を流れる夢前川や集落、遠くには瀬戸内に浮かぶ島影も見ることができる。
   
 本丸から二の丸、三の丸へ。これらの曲輪群は複雑に配備され、二の丸とその北側の曲輪群および三の丸は大きな堀切(自然の地形を利用か?)で分断されている。さらに三の丸の北および西尾根にも曲輪が築かれている。二の丸は城の中央部に位置し、発掘調査で建物の礎石、瓦が出土している。また庭園の石組も見つかっており御殿風の建物が立っていたことが推測される。三の丸からも建物の礎石、庭園跡がみつかっている。
 庭園付きの建物が建てられていたことは籠城の為だけではなく日常の生活のための住居であることも考えられるが、水場、井戸の痕跡が見られないのは不思議だ。
 二の丸の西下段の帯曲輪(通路?)は馬場跡と伝えられている。ここから南西に伸びる尾根に三段の曲輪が築かれている。馬場跡とされる曲輪と尾根上の二段目の曲輪には土止め用の石垣が見られる。当時としてはもっとも堅固な築城技術を用いたものと思われる。
 置塩城の規模は予想していた以上に広大であり曲輪の数は大小含めて60以上に及ぶ。帰り時間の制約もあり少々急ぎ足の訪問となったが戦国末期に廃城となった城址にしては保存状態も良好、また現在の整備状況も過度なものでなく、かつ探索しやすい。充分に満足する城址巡りだった。新型コロナウイルスの影響で長らく城址巡りや五重塔三重塔を巡る旅を控えていたが、緊急事態宣言も解除されることになったので久しぶりに旅に出た。その旅も今日が最終日。惜しみつつ、置塩城を後にする。
 置塩城は標高370mの城山(置塩山)山頂に本丸を築いた山城。文明元年(1469)に赤松政則が築城したのが最初とされる。置塩城の立地は南北に夢前川が流れ、その川沿いには播磨と但馬を結ぶ街道が通じている交通の要衝にある。
 赤松政則は播磨・備前・美作の守護であった赤松満祐の弟の孫。満祐は六代将軍足利義教を暗殺した嘉吉の変(嘉吉元年・1441)で幕府軍に攻められ失脚。赤松氏は大名家としの地位を失っていたが、政則は家臣の浦上則宗の働きもあり管領・細川勝元を通じて幕府に取り入り、応仁の乱(1467)を契機に播磨、備前、美作を奮回し赤松家を一代で再興した。
 政則は当初は姫路城を居城としたが、但馬の山名氏の侵攻を防ぐため置塩城を築き、本拠をここに移す。これ以降五代にわたって赤松氏一族が城主となるが、廃城となる天正8年(1580)までの約110年の間、戦国時代の大名の定めとして常に危機的な状況と対面せざるを得なかった。城から撤退する場面も何度かあった。
 播磨、備前、美作三国の守護となった政則だが、領内各地で国人衆の勢力は強く、領内支配には苦労したようである。政則は明応5年(1496)に42歳で亡くなり、二代目の城主には一族から迎えた養子である赤松義村が就く。しかし守護代として赤松家を支えていた浦上村宗が実権を掌握。義村を追放し、暗殺する。反浦上派の国人衆は義村の子・晴政を三代目城主に据える。晴政は享緑4年(1531)摂津大物で行われた合戦(大物崩れ)で浦上村宗と戦い父の敵を討つことに成功するが、天文7年(1538)に尼子晴久が播磨に侵攻。晴政は摂津国への逃亡を余儀なくされる。2年後に尼子氏が播磨から撤退したため晴政は置塩城の城主に復帰するが、今度は嫡男である義祐から家中騒動を起こされ追放される。四代目城主となった義祐も一族の争いから置塩城を包囲され籠城して防戦する羽目に陥っている。元亀元年(1570)に義祐は嫡男・則房に家督を委譲。則房は5代目城主となるが、天正5年(1577)秀吉による中国攻めに際して則房は秀吉の凋落によって降伏する。その後置塩城は廃城となった。(2021年3月7日)

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