日本の城ある記(山陰の城・福知山城)

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 福知山城  (ふくちやまじょう)

訪問記
 京都から山陰本線で福知山市に向かう。京都の街並みが途切れると列車は直ぐに保津峡の渓谷に出る。京都は東西と北側を山に囲まれ、南は湿地帯で守られた要害都市である。神社仏閣ばかりが目につくが敵の侵入を防ぐ城塞としての機能も考えてここに都を造ったに違いない。何れそんなことも調べてみたいと思いながら田園風景の中の福知山までの鉄道の旅を楽しむ。今日は初めて訪れる福知山城の見学である。
 福知山駅からお城まで綺麗に整備された商店街を歩く。その道すがらに明智光秀の家紋である桔梗紋が目につく。福知山市の市の花の一つに桔梗が指定されてもいる。福知山城を築いたのは明智光秀であり、また光秀は由良川の流路を変えて堤防を築き城下町の原型を作っている。また地子銭(税金)を免除して丹波、丹後、但馬地方一の商業都市として発展の基礎を作ったとされる。
 光秀が福知山に城を築いたのは織田信長の命による中国征伐の拠点とすべく天正7年(1579)のこと。光秀が福知山に城を築く以前、この地の国衆・塩見氏が八幡山の麓に掻上城を築いて支配していた。塩見氏は後に横山姓に改名し、城も横山城と呼ばれた。光秀は丹波地方を平定すると横山城を近代的な城郭に改修して、名前も福知山城に改める。しかしその3年後の天正10年(1582)に光秀は本能寺で織田信長を討ち、そして山崎の合戦で秀吉に敗れる。光秀が福知山城の城主であったのは僅か3年の間であった。
 本格的な城郭と城下町の整備は慶長5年(1600)に入封した有馬豊氏になってから。標高35mの丘陵の最高地に本丸を築き、西へ二の丸、伯耆丸、内記丸を整備し、由良川と土師川を天然の外堀として土居に囲まれた総構の要害にした。現在に残る城の骨格はこの時に完成したもの。また、由良川の水運を活用して「福知千軒」と言われるほど城下の町屋が発展したのは寛文9年(1669)に入封した朽木氏の時代になってから。それでも福知山では他の城主をさしおいて光秀がもてはやされているのは不思議な気がする。(2016年3月27日) 

福知山藩 歴代藩主
 家紋  入封時期  禄高  入封時の藩主  
慶長5年
(1600)
6万1千石 有馬豊氏(外様)遠江横須賀より入封
元和7年
(1621)
5万石 岡部長盛(譜代)丹波亀山より入封  
寛永元年
(1624)
4万5千石 稲葉紀通(外様)摂津中島より入封  
慶安2年
(1649)
4万5千石 松平(深溝)忠房(譜代)三河刈谷より入封  
寛文9年
(1669)
3万2千石 朽木植昌(譜代)常陸土浦より入封  

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